16世紀後半から17世紀前半にかけて、フランスやドイツでは宗教戦争や国際戦争の時代ですが、同時代のオランダ史についてはあまり詳しく書かれていないかもしれません。ここではごくごく簡単に「八十年戦争」について触れます。
この記事は最低限でざっくり書いてあるため、もう少し詳しい全体の流れは「八十年戦争期の宗教」を参照ください。
八十年戦争(1568-1648)は、十六世紀にスペインの属領となっていたネーデルランド全十七州が、スペイン国王フェリペ二世に対して「反乱」を起こしたのが始まりです。十七州のうち北部の七州が「オランダ連邦共和国」として、最終的にその主権と独立を国際的に承認されるまでの、約八十年間におこなわれた断続的な戦争を総称して「八十年戦争」と呼びます。
1555年秋、スペインのフェリペ二世は父王カール五世(カルロス一世)の退位に伴い、ネーデルランド全十七州の支配権を委譲されました。中央集権化や新教迫害等の政策をすすめるフェリペ二世に対し、1566年、ネーデルランドではカルヴァン派貴族ら400名が中心となって貴族同盟が結成され、国王への反抗が開始されました。これらの沈静化やさらなる宗教的迫害の徹底のため、スペインから派遣されたアルバ公は「血の評議会」と呼ばれる恐怖政治を開始します。これに対して、ネーデルランドの貴族オランイェ公ウィレムとその弟たちが挙兵したのが八十年戦争の起点とされています。(一般的には「ヘイリヘルレーの戦い」に勝利した1568年5月23日。一部、その一ヶ月前の「ダルハイムの戦い」の4月25日とする意見もあります)。ウィレムは「海乞食」などと連携して反乱を指導する一方、スペイン側との交渉やフランス・イングランドとの外交、反乱諸勢力の調停など政治的にも精力的に活動しました。
その途上の1579年、国王フェリペ二世の甥でネーデルランド執政のパルマ公ファルネーゼの調停により、全十七州のうち南部諸州は反乱から離脱(「アラス同盟」)し、スペインに下ることになります。それに対抗して北部諸州は、のちの共和国の運営の規範となることになる「ユトレヒト同盟」を結成しました。また、1581年7月26日、全国議会によってフェリペの廃位を決議した「廃位布告」が行われました。「独立宣言」と誤用されることもありますが、これはフェリペに代わる別の君主にネーデルランドの君主権を与えるために、フェリペただひとりの廃位を目的としたものであって、いわゆる独立宣言や共和国樹立の宣言とは主旨を全く異にしています。
スペインとフランスの確執を利用しようと考えていたユトレヒト同盟諸州は、「廃位布告」後の1582年3月、フランス王弟アンジュー公を主権者として招くことを決定しました。しかしアンジュー公は「フランス兵の狂暴」と呼ばれるクーデターを企み、それに失敗して失脚します。その後、反乱の指導者ウィレムの暗殺(1584年7月10日)を経て、共和国は次にその主権を委譲すべき外国君主を探し、同じくスペインと緊張関係にあったイングランドに白羽の矢を立てました。エリザベス女王本人は共和国の主権を拒否しましたが、1585年9月、「ノンサッチ条約」に基づき寵臣レスター伯を自らの代理として派遣します。ところがレスター伯もアンジュー公同様にさらなる権力の拡大を画策し、しかもスペインと結ぼうとさえしたため、1587年12月に失脚し帰国させられてしまいます。
このように仏・英からの君主の招聘が相次いで失敗に終わってはじめて、連邦議会は翌1588年、今後は二度と外国君主を迎えず、北部諸州が「オランダ連邦共和国」として自ら主権を行使していくことを決定するに至りました。その最高意思決定機関は連邦議会とされました。それまで各地を転々として開催されていた連邦議会は、1593年6月からハーグにあるビネンホフに常設され、ここで連日のように会議が催されることになります。
1590年代、ウィレムの次男で、諸州の州総督および陸海軍最高司令官としてその後を継いだナッサウ伯マウリッツは、軍制改革をおこなって共和国陸軍を強化し、東部・南部戦線においてほぼ現在のオランダ国境にあたる都市を占領していきました。ウィレムの腹心でもあった政治家ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトは、ホラント州の法律顧問として共和国首相のような役割を果たし、共和国を政治的に指導していきます。オルデンバルネフェルトは1596年に、イングランドおよびフランスと対スペイン「三国同盟」を締結することに成功しました。この同盟は、オランダ共和国が主権君主エリザベス一世・アンリ四世と対等の立場で同盟を結んだということを意味し、国際的にもその主権が承認された第一歩と位置づけることができます。
そして1598年にはスペインでフェリペ二世が没します。フェリペは死の直前にあらかじめ、スペイン統治下にある南部諸州の統治権を王女イザベラと娘婿アルプレヒトに委託し、二人はブリュッセルに赴いて、執政として共同統治をおこなうことになりました。スペインでは王子フェリペ三世が即位し、財政難から対共和国の軍事費を削減します。このため、戦争遂行能力の低下したブリュッセルの側から共和国に停戦が申し入れられました。1609年4月、ブリュッセル執政府とオルデンバルネフェルトの主導によって交わされた「十二年休戦条約」によって、共和国は戦争相手国であるスペインにも、事実上その独立を認めさせるかたちになりました。
「大公たち」の治める南ネーデルランド執政府では、この休戦期に文化が隆盛し比較的平和な時代が続きます。しかし逆に北部では、この停戦問題を期に共和国内部の対立が表面化することになりました。この対立には宗教的要素も加わり、やがてマウリッツとオルデンバルネフェルトを中心とした二大勢力の対立となっていきます。最終的に1618年、オルデンバルネフェルトはかつての共同運営者マウリッツの手によって国家反逆罪のかどで逮捕され、翌年には処刑されてしまいます。(詳しくは「宗教論争からクーデターへ」へ)。
1621年に十二年休戦の期限が切れると、対スペイン戦争が再開されました。マウリッツの死後は、彼の異母弟フレデリク=ヘンドリクがその地位と職務を受け継ぎ、共和国の領土の再占領と拡大に貢献します。それだけではなく、彼は子女とイングランド王室やドイツの有力諸侯との間に姻戚関係を結んで、国際的にもオランイェ家の君主的威光を高めました。またフレデリク=ヘンドリクは親フランス政策を取り、ウィレムの時代に反乱から離反した南部諸州をフランスと二分割しようと、フランスのリシュリュー枢機卿らと図り外交による領土拡大を画策(「南ネーデルランド分割構想」)しました。しかし、反対派が独断でスペインとの和平交渉を進めたことや自身の死により、これは実現には至りませんでした。フレデリク=ヘンドリクの死の翌年の1648年5月には「ミュンスター条約」が批准され、オランダ共和国はスペインからの独立と占領地・植民地の確保を正式に認められることとなります。
リファレンス
- 佐藤弘幸『図説 オランダの歴史』、河出書房新社、2012年
- 桜田三津夫『物語 オランダの歴史』、中公新書、2017年
- 森田安一編『スイス・ベネルクス史(世界各国史)』、山川出版社、1998年
- 川口博『身分制国家とネーデルランドの反乱』、彩流社、1995年
- 栗原福也「十六・十七世紀の西ヨーロッパ諸国 二 ネーデルラント連邦共和国」『岩波講座 世界歴史(旧版)<15>近代2』、岩波書店、1969年
- ウィルソン『オランダ共和国(世界大学選書)』、平凡社、1971年
- ヨハン・ホイジンガ『レンブラントの世紀―17世紀ネーデルラント文化の概観(歴史学叢書)』、創文社、1968年