フェルーウェ侵入(1629)/ヴェーゼル占領(1629) Inval van de Veluwe / Inname van Wesel

Wesel 1629-2

Unknown (17th century) 「ヴェーゼル占領 (1629)」 In Wikimedia Commons

フェルーウェ侵入 Veluwe 1629/7/21-8/末/ヴェーゼル占領 Wesel 1629/8/19
対戦国 flag_nl.gif オランダ

flag_es.gif スペイン
flag_es.gif 神聖ローマ帝国

勝 敗 ×
参加者 オランイェ公フレデリク=ヘンドリク
ディーデン卿オットー・ファン・ヘント
ナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミール
ナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレム
リンブルク=シュティルム伯ヘルマン一世オットー
ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリク
モンテクッコリ伯エルネスト

後の神聖ローマ帝国総司令官にして、17世紀を代表する軍略家のライモンド・モンテクッコリ。若干二十歳の彼は皇帝軍に属する伯父エルネストとともに、スペイン軍への友軍として駆けつけたオランダ戦線において、アメルスフォールトの街を開城させる。共和国成立以来、ホラント州の喉元にまで迫られたこのかつてない危機は、補給路の封鎖により辛くも回避された。モンテクッコリが、今度はオランダ軍への友軍として、次に共和国の国境を踏むのは実に44年後のこととなる。

諸州と自身の名誉のすべてをかけたこの攻囲戦を途中で投げ出すくらいなら、死んだほうがマシだ!

オランイェ公フレデリク=ヘンドリク/”Memoire”

はじめに

De wijt vermaerde Stadt Wesel door verrasschinge des nachts aldus verovert - Capture of Wesel in 1629

Theodorus Dirck Roderigo Stoop (1652) 「ヴェーゼル占領 (1629)」 In Wikimedia Commons

スヘルトヘンボス攻囲戦(1629)の陽動としておこなわれたフランドル軍による侵略作戦と、そのカウンターアタックでオランダ側がおこなった占領作戦。本来スヘルトヘンボス攻囲戦の中で扱うところ、記事が長いため別にしました。 時系列としては次のとおりです。

  • スヘルトヘンボス攻囲開始 4/30
    • フェルーウェ侵入 7/21
      • ヴェーゼル占領 8/19
    • フェルーウェ撤退 8/末
  • スヘルトヘンボス開城 9/14

フェルーウェ侵入

Inval Veluwe 1629

Claes Jansz. Visscher (17th century) 「フェルーウェ侵略 (1629)」 In Wikimedia Commons

南ネーデルランド執政イザベラの命によってファン・デン・=ベルフ伯ヘンドリクの急援軍がスヘルトヘンボスに到着したのは、オランダ軍による攻囲がはじまってから2ヶ月も経った後でした。いったんスヘルトヘンボスでオランダの攻囲軍と小競り合いを続けたファン・デン=ベルフ伯は、その強固な洪水線に徒に突撃を繰り返すのは得策ではないと考え、作戦を変更します。南部のスヘルトヘンボスにオランダ軍主力が釘付けになっている間、かつてマウリッツ公やスピノラ侯がおこなったように川沿いの街に次々と速攻を仕掛け、あわよくばユトレヒト州からホラント州を抜け、ゾイデル海までのルートを確保しようという算段です。5年前の1624年、同じ地域での同じような作戦を、ファン・デン=ベルフ伯自身が失敗していました。その再現を成功裏におさめようと考えたわけです。

ここでファン・デン=ベルフ伯に味方したのは、皇帝軍のモンテクッコリ伯です。モンテクッコリ伯は、有名なライモンドの伯父にあたるエルネストで(このときライモンドも同行していました)、スヘルトヘンボスで指揮を執るオランイェ公フレデリク=ヘンドリクをおびき出し、野戦に持ち込もうと意気込んでいました。エイセル川沿いの小砦をいくつか急襲で手に入れ、ファン・デン=ベルフ伯はデュイスブルクの川向いに陣を張ります。モンテクッコリ伯もその近郊にキャンプを置くと、エイセル川沿いに北上するのではなく北西に進路をとり、8月3日、アメルスフォールト攻囲を始めました。

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Peter Snayers (17th century) 「ハッテム襲撃 (1629)」 In Wikimedia Commons サラザール伯の襲撃をアムステルダムの援軍が撃退した戦い

アメルスフォールトは翌4日にはあっさり降伏し、その翌々日にはモンテクッコリ伯によって最初のカトリックのミサが挙げられ、市参事会も刷新されました。アメルスフォールトは、ユトレヒト市、ゾイデル海、そしてホラント州との州境までそれぞれわずか10km程度、オランダの心臓部にも程近い街で、オランダはかつてないほどの危機に見舞われたと言っても良いでしょう。

それでもフレデリク=ヘンドリクは敵の術中に陥ることはなく、決して自ら出て行くことはしませんでした。たとえスヘルトヘンボスに展開する全軍をもってしても、野戦で皇帝軍と対峙すれば必ず負けるとわかっていたからです。(この辺の妙な自信?は、マウリッツ以降のナッサウ伯たちに面白いくらいに共通しています)。フレデリク=ヘンドリクは撹乱用の騎兵隊を数回に分けて派遣します。しかしそれも、日を追って数多く、しかも最終的にはナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレムや元帥のナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミールまでを派遣する事態にまでなってきました。

ヴェーゼル占領

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Matthäus Merian (1642) 「ヴェーゼル占領 (1629)」 In Wikimedia Commons

ヴェーゼルは1614年のユーリヒ=クレーフェ継承戦争の折、最後までスピノラ将軍がスペインの領有を主張した街で、ライン川沿いの要衝にあり、以来、「スペイン街道」の重要な補給地となっていました。弾薬や食料などの物資だけではなくキャッシュも蓄えられていて、スペイン軍の一大物流センターともいえる場所です。1629年の軍事遠征の目的として、南のスヘルトヘンボスのほかに、可能であれば東のヴェーゼルとリンゲンも奪還する、と考えていたフレデリク=ヘンドリクは、このような要地にわずか1200人の守備しかいないことを知ると、まずはヴェーゼルを押さえてスペイン軍の補給路を断とうと考えます。フレデリク=ヘンドリクは、いまスヘルトヘンボスを攻囲している隊のいくつかに加え、ヘネプ、ラーフェンシュテイン、ズトフェン、フロール、ブレーデフォールトなど近郊のあちこちの街から守備隊を割き、ヴェーゼルに向かわせました。

ヴェーゼル出身の内通者とパイプのあるエメリヒ市長オットー・ファン・ヘントがまとめ役となり、8月19日、一行はヴェーゼルを前にします。彼らは二手に分かれ、一方は内通者の案内で要塞の崩れた穴から内部に入るも守備隊により撃退、もう一方は市内に居る別の内通者が鍵を開けた門から侵入し、騎兵の奇襲によって街の制圧に成功しました。街のスペイン軍守備隊は、戦死者を除いていったんすべて捕虜となりましたが、のちファン・デン=ベルフ伯のもとへと保釈されることになります。

余波

Gelegentheyt van 's Hertogen-Bosch, haar oorsprock, fundatie ende vergrootinge

Pieter Bor (1630) 「1629年の出来事」 In Wikimedia Commons

武器庫・食料庫・金庫を兼ねたヴェーゼルの奪取は、オランダにとって経済的・戦略的に非常に重要なのは言うまでもありませんが、逆にスペイン軍にとってはこの上ない大ピンチを招きます。補給路と補給物資の両方を失うことは、敵地内での完全な孤立化を意味するからです。ファン・デン=ベルフ伯は奪取したすべての砦の守備隊を引き上げ、オランダの奥深くまで入り込んでいたモンテクッコリ伯はアメルスフォールトを放棄し、手持ちの物資が尽きる前にそれぞれ一刻も早く撤退するほかありませんでした。

このスペイン軍の退却により、オランダは危機を脱すると同時に、スヘルトヘンボスの掘削作業にも拍車がかかることになります。 ヴェーゼルの占領に貢献したスパイたちは、1000ギルダーの一時金および生涯年金、さらにオランダ軍内のポストまでと、充分な褒章で報われました。反対に、一日ももたずにモンテクッコリ伯に街を明け渡したアメルスフォールトの市参事会員たちは、逮捕のうえ処罰を受けたようです。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • Kikkert, “Frederik Hendrik”
  • Poelhekke, “Drieluik”
  • Wilson, “Thirty Years War”
  • Picart, “Memoires”