- プファルツ=ラウテルン公 Landesherr von Pfalz-Lautern、プファルツ選帝侯摂政 Administrator der Kurpfalz、エタンプ公爵 duc d’Étampes
- 生年: 1543/3/7 ジンメルン(独)
- 没年/埋葬地: 1592/1/16 ハイデルベルク/ウィンザー城(独)
生涯
プファルツ選帝侯フリードリヒ三世の次男(成人男子を数えて)。父フリードリヒ三世が厳格な改革派教徒でネーデルランドの反乱に同情的だったのに対し、その跡を継いだ長兄ルートヴィヒ六世はルター派だったため、選帝侯領をルター派にシフトさせはじめていました。そのこともあって、ヨハン=カジミールは改革派の擁護者を自認するようになり、その大儀から、フランス、ネーデルランドに傭兵隊長として参戦します。また、イングランドのレスター伯ロバート・ダドリーやその甥フィリップ・シドニーらを通じて、エリザベス一世に資金援助を求めていました。
1577年10月、南部の都市ヘントで、カルヴァン派の貴族たちが市政を掌握し、独裁をはじめました。翌1578年8月、ヨハン=カジミールはヘントに入城しこれに介入、市の指導者たちとともに過激なカトリック弾圧をおこなって、逆に多くの人々をスペイン陣営に走らせる要因をつくってしまいます。ヨハン=カジミール自身はこの後、イングランドに資金調達のため渡りますが成果は得られませんでした。
1583年、兄ルートヴィヒ六世の死去を期にハイデルベルクに戻り、甥の摂政を務めました。甥フリードリヒ四世は、ヨハン=カジミールの教育のもと、やはり熱烈な改革派に育つことになります。
ウェッジウッドの『オラニエ公ウィレム』を見ると、このヨハン=カジミール、とにかく勝手に首を突っ込んだ挙句に、散々引っ掻き回して帰って行った、というかなりマイナスのイメージで書かれています。ごもっともな部分もありますが、その行動だけ見れば、当時の他の傭兵隊長たちとはっきりいって大差ありません。むしろ、英エリザベス一世、デンマークのフレゼリク二世など、国王と直接のパイプを複数持っていたということで、改革派をまとめる重要人物のひとりとみなしても良いでしょう。
リファレンス
ライン宮中伯クリストフ Christoph von Pfalz
- ライン宮中伯 Pfalzgraf bei Rhein
- 生年: 1551 (独)
- 没年: 1574 モーケルヘイデ(蘭)
生涯
プファルツ選帝侯フリードリヒ三世の三男(成人男子を数えて)。次兄ヨハン=カジミールと同様ネーデルランドの反乱に身を投じますが、ナッサウ伯の末子ハインリヒと同世代で親しかったらしく、兄とではなくハインリヒと共同で軍を編成していたようです。
1574年のモーケルヘイデの戦いで、そのナッサウ伯ハインリヒとともに、戦闘開始直後に戦死しています。
リファレンス
Dr. Oma は小説。
- ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
- Dr. Oma: The Healing Wisdom of Countess Juliana Von Stolberg