ホーエンローエ家は古くはドイツ騎士団総長も輩出した名門で、宗教改革以降ルートヴィヒ=カジミールのときに分家し、ホーエンローエ=ノイエンシュタイン家はプロテスタントの家系となりました。ナッサウ家とも複数の姻戚関係があります。
ホーエンローエ=ノイエンシュタイン=ヴァイカースハイム伯ゲオルク=フリードリヒ Georg Friedrich von Hohenlohe-Neuenstein-Weikersheim
- ホーエンローエ=ノイエンシュタイン=ヴァイカースハイム伯 Graf von Hohenlohe-Neuenstein-Weikersheim
- 生年: 1569/9/5 ノイエンシュタイン(独)
- 没年/埋葬地: 1645/7/7 ランゲンブルク(独)
生涯
ホーエンローエ=ノイエンシュタイン伯ヴォルフガンクとマグダレーナ・フォン・ナッサウの長男。父方の叔父にホーエンローエ=ノイエンシュタイン伯、母方の伯父にオランイェ公ウィレムを持ち、ナッサウ伯たちとは従兄弟同士ということになります。1610年に父からヴァイカースハイムを継承しました。
典型的な傭兵稼業をした人物です。ジュネーヴ、シエナ、パドヴァの大学で学んだ後のグランドツアーでフランスに赴いた際、まずはアンリ四世麾下でカトリック同盟と戦います。その後神聖ローマ皇帝のもとで、トルコ戦線やハンガリーで戦います。ところが、ボヘミア貴族と結婚したことでボヘミアに基盤を持つことになり、三十年戦争最初期のボヘミアの反乱では、皇帝に対抗する中心人物のひとりとしての役割を演じることとなりました。白山の戦いでは騎兵を率いて参戦しています。
ゲオルク=フリードリヒはこの反乱で敗れたことで皇帝フェルディナント二世から法的権利を剥奪されましたが、皇帝との和議に奔走し、領地ヴァイカースハイムの保持に成功しています。しかし今度は、二度めの結婚の関係でシュヴァーベン・クライスの要職を打診され、それを受諾したことでまた皇帝の不興を買ってしまいます。二度めの法的権利の剥奪は、次の皇帝フェルディナント三世に代替わりするまで解除されませんでした。
ゲオルク=フリードリヒは政治から退くことを条件に許され、ランゲンブルクに隠居しました。もともと文学に造詣が深かったこともあり、余生は詩作に没頭したようです。
リファレンス
- “ADB“
ホーエンローエ=ランゲンブルク伯フィリップ=エルンスト Philipp Ernst von Hohenlohe-Langenburg
- ホーエンローエ=ランゲンブルク伯 Graf von Hohenlohe-Langenburg
- 生年: 1584/8/11 ランゲンブルク(独)
- 没年/埋葬地: 1628/1/29 ヴァイカースハイム(独)/ランゲンブルク(独)
生涯
ゲオルク=フリードリヒの弟。叔父のフィリップを頼ってオランダに渡り、オランダ軍の大佐として軍務に就きました。1606年に叔父フィリップからリースフェルトを、1610年に父からランゲンブルクを継承し、ランゲンブルク伯となります。
オランダでの軍務を終えると領地にランゲンブルク城を建設しました。が、44歳の若さで病死しています。
リファレンス
- “NDB“