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- ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯 Herzog zu Braunschweig und Lüneburg und Fürst von Braunschweig-Wolfenbüttel
- 生年: 1599/9/20 グレーニンゲン(独)
- 没年: 1626/6/16 ヴォルフェンビュッテル(独)
生涯
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ハインリヒ=ユリウスの三男。『ドイツ三十年戦争』を読むと、著者ウエッジウッドがとにかくこの人大好きらしく、いくらでもネタが出てくるのでここでは詳述しません。クリスティアンはハルバーシュタット司教管区で聖職に就いていたものの、「私は戦争に嗜好を持っている」と書いて1万人もの傭兵軍を組織し、三十年戦争に参戦します。(この時しっかり司教区の金庫は失敬しています)。
プファルツ選帝侯フリードリヒ五世とその妃エリザベスのため、プロテスタント陣営で戦うことを決意したクリスティアンは、まずはマンスフェルト伯と合流して戦いますが、皇帝軍のティリー伯にこてんぱんにやられてしまいます。その後休戦が明けたばかりのオランダで、1622年のベルヘン=オプ=ゾーム攻囲戦に参加し、スペイン軍を撃退しています。これに先立つフルーリュスの戦いで左手を切り落とすほどの怪我をしたクリスティアンの肖像画は、これ以降、左手に三角巾代わりにした肩帯を巻いていたり、左手がガントレットになっていたりしています。
肖像といえば、ここに挙げた肖像をはじめとして、左側だけ髪の毛をひと束垂らしている肖像が多いです。叔父のデンマーク国王クリスチャン四世のトレードマーク「ポーリッシュ・プラット」を真似ているのかもしれません。
しばらく姉ゾフィー=ヘートヴィヒや元ボヘミア国王一家を頼ってハーグに出入りしたクリスティアンでしたが、正式にオランダ軍に加わりたいとの申し出は了承されませんでした。傭兵としてならともかく、規律でもっている共和国軍に、掠奪で悪名高いクリスティアン軍を加え入れることが敬遠されたものと思われます。
1623年、クリスティアンは勝手に長兄フリードリヒ=ウルリヒの領地の守護者を名乗って北ドイツ司教区に侵攻しますが、ティリー伯に追撃され、ここでもぼろぼろにやられてしまいます。さらに1626年、今度はデンマーク国王クリスチャン四世に呼応して挙兵するものの、ここで病を得て死亡しています。
リファレンス
- ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
- “NDB“