ブラウンシュヴァイク諸侯 Fürst von Braunschweig

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Scheibler’sches Wappenbuch (1450-1480) In Wikimedia Commons

オランダにとっては、領土こそ接していないものの、お隣といって良い家系。ナッサウ家もですが、いかにも当時のドイツ貴族的な人々です。

ハインリヒ=ユリウス・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル Heinrich Julius von Braunschweig-Wolfenbüttel

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Dominicus Custos (1600-1602) In Wikimedia Commons

  • ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯 Herzog zu Braunschweig und Lüneburg und Fürst von Braunschweig-Wolfenbüttel
  • 生年: 1564/10/15 ヘッセン城(独)
  • 没年: 1613/7/20 プラハ(チェコ)

生涯

二度目の結婚で、デンマーク王女エリーザベト(国王クリスチャン四世の姉)と結婚しています。父の時代にブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルはルター派に改宗。都市ブラウンシュヴァイクとはそのときから抗争が続くようになります。法学、文学、建築などに才能を示し、神聖ローマ皇帝ルドルフ二世とは、宗派を越えて懇意にしていました。しかし、浪費癖と酒乱がひどく、死因も酒のせいといわれています。

オランダに関するちょっとしたエピソードがあります。1592年、同世代のナッサウ伯たちの攻囲戦を見学にきたハインリヒ=ユリウスは、感激のあまり、ぜひナッサウ伯の誰かひとりを婿にして、親戚づきあいをしたいと申し出ました。が、この時点でハインリヒ=ユリウスの娘は、つい数ヶ月前に産まれたばかりのゾフィー=ヘートヴィヒのみ。その時点ではナッサウ伯たちは誰も冗談だと思って取り合わなかったのですが、ハインリヒ=ユリウスは1605年、ナッサウ伯エルンスト=カシミールを自国に援軍として招聘し、そのまま娘との婚姻関係を結ばせることに成功しています。

リファレンス

  • エヴァンズ(中野春夫 訳)『魔術の帝国 ルドルフ二世とその世界』上、ちくま学芸文庫、2006年
  • ヒュー トレヴァー=ローパー『ハプスブルク家と芸術家たち』 、朝日新聞社、1995年
  • ヒュー トレヴァー=ローパー『絵画の略奪』 、白水社、1985年
  • NDB

フリードリヒ=ウルリヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル Friedrich Ulrich von Braunschweig-Wolfenbüttel

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Wilhelm Schwan (17th century?) In Wikimedia Commons

  • ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯 Herzog zu Braunschweig und Lüneburg und Fürst von Braunschweig-Wolfenbüttel
  • 生年: 1591/4/5 ヴォルフェンビュッテル(独)
  • 没年: 1634/8/11 ブラウンシュヴァイク(独)

生涯

ハインリヒ=ユリウスの長男。中世から数百年間、都市ブラウンシュヴァイクとブラウンシュヴァイク公の間には緊張がありましたが、フリードリヒ=ウルリヒが父の死後21歳の若さで侯位を継ぐと、すぐに都市ブラウンシュヴァイクと抗争が持ち上がります。オランダからもその鎮圧にナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクが派遣されています。このことから為政者として適当でないとされ、母と叔父のデンマーク国王クリスチャン四世に一度は廃されてしまいます。

1622年に支配権を回復するものの、今度は三十年戦争の中での立ち回りに失敗し、領土の荒廃を招きました。1634年に嗣子なく死去したため、ヴォルフェンビュッテルとカレンベルクはそれぞれリューネベルク公アウグスト二世とリューネベルク公ゲオルクに分割相続されました。

リファレンス

ゾフィー=ヘートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル Sophie Hedwig von Braunschweig-Wolfenbüttel

Sophia Hedwig van Brunswijk-Wolfenbuttel (1592-1642), by Wybrand de Geest (I)

Wybrand de Geest (1621-1629) In Wikimedia Commons

  • ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯女、ナッサウ=ディーツ伯妃
  • 生年: 1592/6/13 ヴォルフェンビュッテル(独)
  • 没年: 1642/1/23 アルンヘム(蘭)

生涯

ハインリヒ=ユリウスの次女。個別記事へ → ゾフィー=ヘートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル

クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル Christian von Braunschweig-Wolfenbüttel

Herzog Christian von Braunschweig-Lüneburg

Jan Antonisz. van Ravesteyn (1620) In Wikimedia Commons

  • ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯 Herzog zu Braunschweig und Lüneburg und Fürst von Braunschweig-Wolfenbüttel
  • 生年: 1599/9/20 グレーニンゲン(独)
  • 没年: 1626/6/16 ヴォルフェンビュッテル(独)

生涯

ハインリヒ=ユリウスの三男。『ドイツ三十年戦争』を読むと、著者ウエッジウッドがとにかくこの人大好きらしく、いくらでもネタが出てくるのでここでは詳述しません。クリスティアンはハルバーシュタット司教管区で聖職に就いていたものの、「私は戦争に嗜好を持っている」と書いて1万人もの傭兵軍を組織し、三十年戦争に参戦します。(この時しっかり司教区の金庫は失敬しています)。

プファルツ選帝侯フリードリヒ五世とその妃エリザベスのため、プロテスタント陣営で戦うことを決意したクリスティアンは、まずはマンスフェルト伯と合流して戦いますが、皇帝軍のティリー伯にこてんぱんにやられてしまいます。その後休戦が明けたばかりのオランダで、1622年のベルヘン=オプ=ゾーム攻囲戦に参加し、スペイン軍を撃退しています。これに先立つフルーリュスの戦いで左手を切り落とすほどの怪我をしたクリスティアンの肖像画は、これ以降、左手に三角巾代わりにした肩帯を巻いています。

肖像といえば、ここに挙げた肖像をはじめとして、左側だけ髪の毛をひと束垂らしている肖像が多いです。叔父のデンマーク国王クリスチャン四世のトレードマーク「ポーリッシュ・プラット」を真似ているのかもしれません。

しばらく姉ゾフィー=ヘートヴィヒや元ボヘミア国王一家を頼ってハーグに出入りしたクリスティアンでしたが、正式にオランダ軍に加わりたいとの申し出は了承されませんでした。傭兵としてならともかく、規律でもっている共和国軍に、掠奪で悪名高いクリスティアン軍を加え入れることが敬遠されたものと思われます。

1623年、クリスティアンは勝手に長兄フリードリヒ=ウルリヒの領地の守護者を名乗って北ドイツ司教区に侵攻しますが、ティリー伯に追撃され、ここでもぼろぼろにやられてしまいます。さらに1626年、今度はデンマーク国王クリスチャン四世に呼応して挙兵するものの、ここで病を得て死亡しています。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
  • NDB

ブラウンシュヴァイク=カレンベルク侯ゲオルク Georg von Braunschweig-Calenberg

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Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公 Herzog von Braunschweig und Lüneburg、カレンベルク侯 Fürst von Calenberg
  • 生年: 1582/11/17 ツェレ(独)
  • 没年/埋葬地: 1641/4/2 ヒルデスハイム/ツェレ・聖母マリア教会(独)

生涯

ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ヴィルヘルムの五男。若年期はオランダのナッサウ伯マウリッツの軍(1604-)をはじめ、スピノラ侯の軍(1606-)、フランス(1608-)、イタリア(1610-)と短期間で所属を変えながら軍略の勉強をし、1611年はじめて中隊長として軍を率い、カルマル戦争に従軍しています。1617年にいったん領地のうちグルーベンハーゲンの継承が認められ、拠点としてハルツベルク城を得ました。

小領地の経営だけでは飽き足らないゲオルクは、三十年戦争が始まると傭兵としてスウェーデン軍に仕官し将軍の職を得ます。国王グスタフ二世アドルフの戦死後もその宰相のオクセンシェルナとの関係が良かったため、スウェーデン軍の指揮を委譲されました。(オクセンシェルナとは文芸サークルにも一緒に入るほど懇意だったようです)。

しかしプロテスタント側が劣勢となり、1635年には皇帝主導でプラハ条約が締結されます。ゲオルクはヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム五世、ライン宮中伯カール=ルートヴィヒと並んで最後までこの条約に署名を拒否したひとりでしたが、親族からの忠告もあり、領地の防衛に足る程度の軍を残してこれ以降傭兵稼業からは足を洗ってしまいました。ちょうどこの頃、フリードリヒ=ウルリヒを最後としてブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの血統が絶え、その領地を従兄のアウグスト二世と分割し、カレンベルクとゲッティンゲンを得ました。カレンベルク侯となってから、首都をハノーファーに移転しています。

なお、ゲオルクの直系の孫で同名のゲオルクが、後にハノーファー選帝侯を経てイングランド国王ジョージ一世として即位することになります。

リファレンス