アマーリエ=エリーザベト・フォン・ハーナウ=ミュンツェンベルク Amalie Elisabeth von Hanau-Münzenberg

Amalie Elisabeth von Hanau-Münzenberg, Portrait als junge Frau

Christian Gottlieb Geyser (18th century) In Wikimedia Commons

  • ハーナウ=ミュンツェンベルク伯女 Grafin von Hanau-Münzenberg、ヘッセン=カッセル方伯妃 Landgrafin Hessen-Kassel
  • 生年: 1602/1/29 ハーナウ(独)
  • 没年: 1651/8/8 カッセル(独)

生涯

三十年戦争期の女傑のひとり。母親のカタリナ=ベルギカ・ファン・ナッサウも含め、南ネーデルランド執政イザベラやゾフィー=ヘートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイクなど、夫の死後に摂政や代官として三十年戦争を生き抜いた女性は何人かいますが、中でもアマーリエ=エリーザベトは筆頭に挙げられます。

母親のカタリナ=ベルギカはウィレム沈黙公の娘。父親のハーナウ=ミュンツェンベルク伯フィリップ二世ルートヴィヒは、ナッサウ伯ヤン六世を摂政、その息子のヤン七世を義理の父(母の再婚相手)としており、アマーリエ=エリーザベトはナッサウ色の強い家系に生まれた長女です。しかも父の死の1612年まで、伯母ルイーズ=ユリアナ・ファン・ナッサウを頼ってハイデルベルクのプファルツ選帝侯館で育っており、カルヴァン派の影響も強く受けています。1619年にヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム五世と結婚。しかし当時、義父のヘッセン=カッセル方伯モーリッツは先代の遺言に反して、分割継承するはずのヘッセン領を横取りした挙句、禁じられていた改宗もおこなったとして親族内でもめていました。1627年、結局モーリッツが退位し、夫のヴィルヘルム五世がヘッセン=ダルムシュタット伯に領地を割譲することで決着します。

ところが夫のヴィルヘルム五世は三十年戦争の最中、スウェーデン・フランスと同盟をを結んで一貫してプロテスタント側を支持し、強硬な姿勢を貫いたため、領地ハーナウは皇帝軍に包囲され、夫婦は子供たちを残して亡命を余儀なくされてしまいました。1637年、ヴィルヘルム五世は亡命中のフリースラントで死去。ヴィルヘルム五世は亡くなる前に、まだ年少の長男ヴィルヘルム六世に代わり、フリースラントに連れてきている軍隊の指揮権も含め、アマーリエ=エリーザベトにすべての権限を委譲していきました。

摂政としてアマーリエ=エリーザベトは夫の方針を踏襲し、スウェーデン・フランスと再度同盟を強化することに成功し、ヘッセンの軍隊がそれなりに強力だったこともあって、1640年頃には領地を回復に導きます。それどころか5年後にはさらに攻勢に出て、1627年の割譲を不服として蒸し返し、ヘッセン=ダルムシュタット伯に領地を返還するよう迫って「ヘッセン戦争」を起こしました。そしてこの戦争とウェストファリア条約の交渉に成功し、ヘッセン=マールブルク領を奪還しています。

しかしウェストファリア条約からわずか2年後、三十年戦争の間にたまったストレスと、次女シャルロッテ(プファルツ選帝侯カール=ルートヴィヒの妃)の醜聞に疲れ、摂政を降りると、翌年消耗死のように亡くなりました。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
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