- ロス=バルバセス侯 Marqués de los Balbases、セスト侯(公)およびヴェナフロ侯 Marqués(Duca) de Sesto y de Venafro、「大貴族」”Grande”、フランドル方面軍総司令官 Capitán General de Flandes、ミラノ公国総督 Gobernador de Milán
- 生年: 1569 ジェノヴァ(伊)
- 没年: 1630/9/25 カステルヌオーヴォ・スクリーヴィア(伊)
生涯
ジェノヴァの銀行家の一族出身。スピノラ家については、リンク先の別項目を参照ください。16世紀後半、ジェノヴァで政敵との政争に敗れたアンブロジオはジェノヴァを離れ、傭兵隊長(コンドッティエーロ)としてフェリペ三世と契約を結ぶ決意をします。(結果論ですが、ジェノヴァはちょうどこの頃からアンブロジオの死までの時期、最も繁栄した一時代を築きます)。スピノラ家の財産を元手に、1602年にアンブロジオは9,000名の傭兵を私財で調達しました。1603年、弟フェデリコが戦死すると、アンブロジオはその提督位を受け継いでイングランド戦線に向かうようフェリペ三世から打診されました。が、アンブロジオはこれを断ってフランドル戦線を志願し、当時3年目の長丁場になっていたオーステンデの攻囲戦に参戦します。オーステンデ勝利の功で、翌1605年金羊毛騎士に任ぜられました。その後はフランドルやオランダ東部で共和国軍と一進一退の攻防を繰り広げることになりますが、とくに1605-1606年の東部戦役を「スピノラの遠征」と呼びます。
アンブロジオの家系には銀行家と聖職者が多く、決して軍人稼業の家系ではありません。そのため最初は嘲笑を買いましたが、アンブロジオはとくに誰に学ぶことなく、当時一流の軍略家であったナッサウ伯マウリッツと同等のパフォーマンスを示してみせました。兵にはオランダ軍同様に給与を定期的に支払い、ダ・ヴィンチ大学の技術者たちを常に従え、攻城戦を得意としました。
ソースの無い記述なのでどこまで本当か確認できていませんが、1590年代、他のヨーロッパの若い貴族たち同様、アンブロジオがオランダ軍キャンプに戦争を見学に来たことがある、とする説もあります。1602年のフラーフェ攻囲戦には親戚のブリュエ伯ガストン・スピノラも訪れていますし、1590年代にはまだアンブロジオはスペイン軍の所属ではないので、充分にあり得る説ではあります。ただ、マウリッツやウィレム=ローデウェイクが休戦交渉の1608年時点までスピノラの顔を知らなかったことから考えても、仮に彼が1590年代にオランダ軍キャンプを訪れたことがあったとしても、正式に司令官キャンプを訪問したというよりは、「紛れ込んでいた」という表現のほうが近そうです。
1608年1月末、アンブロジオは休戦の大使としてハーグにやってきて8ヶ月滞在します。このとき、自分たちの銀食器や家財道具、食材(毎朝一般人にも見えるように公開で朝食をとったとか)まで持ち込んで、イタリア同様の豪奢な暮らしを営みました。カトリックのミサも執り行い、余計に和平反対派(とくにカルヴァン派)の反感を強めたといわれています。しかしスピノラは契約をしてからこのかたスペインから全く支払を受けておらず、戦費の全てを自腹でまかない続けていたため、この頃から経済的に余裕がなくなってきていました。(スペインからの最初の支払を受けたのは1619年になってからです)。和平の使者に立ったのにはその一因もあるようです。ちなみに、アンブロジオは戦場では常に全身を鎧兜で固めており、マウリッツやフレデリク=ヘンドリクをはじめとしてオランダ側の将軍は皆、彼の顔を見たのはこのときが初めてだったといいます。しかしお互い敵同士であるはずなのですが、その関係は悪くはなく、マウリッツは私室での軍用望遠鏡のデモンストレーションの際にスピノラを立ち合わせていますし、肖像画家ミーレフェルトにスピノラの肖像を何枚か描かせたりもしています。(詳細は「ロイヤル・コレクション事始め」参照ください)。フレデリク=ヘンドリクに至っては、頻繁に朝食の席に加わっていたようです。
休戦中、スピノラはそのまま任を解かれることもなく、司令官の地位に留まりました。兵を維持するため、それが逆に経済的な困窮を早め、1611年には破産を経験します。この破産の代償として、1606年に望んで得られなかった大貴族(グランデ)の称号を得ています。スペインの命により、ユーリヒ=クレーフェ継承戦争、プファルツ遠征などへの介入を行い、休戦明けの1621年にはロス=バルバセス侯爵位を得たうえで、再びフランドル軍総司令官となりました。
再戦後は『ブレダの開城』で有名な攻囲戦でブレダを占領するも、1627年フロールをオランイェ公フレデリク=ヘンドリクにより奪還されています。翌年スペインに給与支払の交渉のため赴きますが、逆にフロールの責任を厳しく追及されることになってしまいました。(資金不足のため、スピノラ自身はフロール攻囲に参加していないにも関わらず、です)。1629年のスヘルトヘンボス攻囲戦の際にはオリバーレス公伯爵からフランドル行きを打診されるものの、戦闘のためではなく交渉のためだったため、スピノラ側から辞退しています。マドリードに居場所をなくしたスピノラはその後イタリア戦線に投入されてしまい、オランダではフレデリク=ヘンドリク率いる共和国軍が優勢となっていきます。これはパルマ公ファルネーゼがフランスへ派遣されたことにより、戦局がマウリッツに有利になった図式と似ています。スピノラの晩年は不幸で、マントヴァ継承戦争の攻囲戦中に、無一文となって孤独のうちに病死してしまいました。最後に病床を見舞ったのは、後のフランス宰相・枢機卿で同じくイタリア出身のジュール・マザランだけだったとのことです。
アンブロジオは、生前・死後問わず、著名な画家に描かれた人物の一人でもあります。『ブレダの開城』のベラスケスのほか、アントニー・ヴァン・ダイクやルーベンスが肖像画を描いています。ルーベンスとは個人的な友人でもありパトロンにもなっていましたが、ルーベンス自身が「スピノラ侯の芸術に関する知識は馬丁の子供以下だ」と嘆くほど、絵画への興味関心自体は薄かったようです。
子供は3男2女。ロス=バルバセス候およびセスト候(1612年以降「公」に昇格)を継いだ長男フィリッポは、1625年のブレダ攻囲にも参加し、同じく金羊毛騎士および大貴族となったうえで南ネーデルランド執政府の評議員を務めました。聖職者となった次男アウグスティーノは大司教を歴任し、長女ポリセーナは、スピノラ麾下の将軍レガネス侯に嫁いでいます。
オランダにとっては敵将であり、スペインにとっても外国人であるためか、スピノラに関する研究は驚くほど少ないようです。1900年代にスペイン語とフランス語の伝記が少しあるくらいで、日本語でまとまった研究はほぼ皆無。管理人も、オランダ史の中の断片や「大貴族名鑑」あたりからなんとか拾い上げている程度です。
なお、スピノラのファーストネームは、英語・伊語・蘭語表記で「Ambrogio」、西語・独語表記で 「Ambrosio」です。このサイトでは、どちらともとれる「アンブロジオ」で統一しました。
リファレンス
記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。
- 色摩力夫『黄昏のスペイン帝国―オリバーレスとリシュリュー』、中央公論社、1986年
- J.H. エリオット(藤田一成 訳)『リシュリューとオリバーレス―17世紀ヨーロッパの抗争』、岩波書店、1988年
- ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
- University Leiden, “Personen“
- “1911 Encyclopædia Britannica“
フェデリコ・スピノラ Federico Spinola
- 生年: 1571 ジェノヴァ(伊)
- 没年: 1603/5/26 スライス(蘭)
生涯
アンブロジオ・スピノラの父であるセスト侯フィリッポには2人の息子と5人の娘がいましたが、いずれも誕生日は不明で誕生年のみわかっています。フェデリコはアンブロジオの弟。もうひとり、同じく戦線に加わったスピノラ姓の男子にフェルナンドがいますが、生年不明のうえ、セスト侯直系の家系図には載っていないためおそらく一族の別の家系と思われます。
長男のアンブロジオは家を継ぐためジェノヴァに残っていましたが、フェデリコは1590年代からフランドル軍に志願しており、兄アンブロジオはジェノヴァを追われると、10年の戦歴のあるこのフェデリコの伝手を頼っています。スピノラ家の私財をすべて軍隊に投資することになった際、アンブロジオが陸軍の傭兵隊を集めたのに加え、フェデリコはガレー船団を組織してそれぞれの隊を率いました。が、フェデリコは1603年のスライスの海戦で戦死し、陸軍将校だったフェルナンドも同年オランダで戦死しています。
コミック『イサック』では第一巻でアンブロジオが死んでしまうので、その身代わりとしてフェデリコがアンブロジオとしてスピノラ隊を率いる、という設定になっています。本来17年前に戦死しているんですけれどね。
ほか、1604年スライス攻囲戦での守備隊を率いていたアウレリオの名が出ていますが、「アンブロジオの甥」という以外、年齢もその後どうなったかもわかりません。