対戦国 | ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公 | ブラウンシュヴァイク市 ハンザ同盟 オランダ |
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勝 敗 | × | ○ |
参加者 | ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フリードリヒ=ウルリヒ |
ブラウンシュヴァイク市民 |
既に過去13回にもわたるという君主と都市との争い。かつてのネーデルランドの反乱期から40年あまり、あの時と同じように、女性たちは自ら武器を取って脅威に立ち向かう。そしてこの局地戦は、いずれ傭兵隊長として名声を築き上げていく男性たちの修練場として、三十年戦争の前哨戦と位置づけて足るものだろう。
城壁の上にはゲスケ・マグデブルクという34歳の乙女もおり、剣・ハンマー・マスケット銃を身に着け、騎士のように振る舞い、多くの兵士を負傷させたり殺害したりした。その後何発も銃で撃たれたが、彼女は傷一つ負わなかった。
“Braunschweigisches Biographisches Lexikon – 8. bis 18. Jahrhundert”
はじめに
オランダとスペインが「十二年休戦中条約」で休戦中も、ユーリヒ=クレーフェ継承戦争やグラディスカ戦争など、複数の国家が入り乱れている戦争が各地で勃発しています。それに比べると、この攻囲戦は同じ名前を冠す侯と市の間で争われた、多分にローカルな戦いに見えるかもしれません。が、ユーリヒ=クレーフェ継承戦争(1609-1614)とグラディスカ戦争(1615-1617)のちょうど合間に起こっていること、オランダとも関わりや共通点があり、「反乱」期を彷彿させながらも、この後の三十年戦争へのつながりも充分に感じさせています。
経緯
1250年以来ハンザ同盟に加盟しているブラウンシュヴァイク市は、ブラウンシュヴァイク諸公に対して自治権を有していました。(オランダでいうとフロニンゲン市とフロニンゲン州の関係に近い感じです)。街道と水運が使え、銅の加工やその輸出で栄えたこの都市は、ブラウンシュヴァイク諸公から何度も狙われてきました。
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯ハインリヒ=ユリウスは、ブラウンシュヴァイク市と長らく抗争を続けていて、デンマーク国王クリスチャン四世(ハインリヒ=ユリウスにとっては義理の弟)や、皇帝ルドルフ二世、皇帝マティアスなど複数の君主を巻き込んでいました。1613年に父が亡くなると、その後を継いだフリードリヒ=ウルリヒもブラウンシュヴァイク市の君主権を主張します。
1615年、フリードリヒ=ウルリヒによる多額の金銭的要求を市は拒否、それに対してフリードリヒ=ウルリヒは街を攻囲し、市と侯の間で攻囲戦争が勃発しました。
ハインリヒ=ユリウスは歩兵を「黄色連隊」、騎兵を「赤色連隊」として組織していて、1605-1606年にブラウンシュヴァイク市を攻囲したことがあります。この時もクリスチャン四世やルドルフ二世により停戦や撤退が命じられています。
戦闘
ブラウンシュヴァイク市はハンザ同盟に支援を求めます。ハンザ同盟は先遣隊として、クニプハウゼン男爵ドドにハンザ同盟軍の指揮を依頼します。クニプハウゼン男爵は10年ほど前にオランダ軍で若年ながら砲兵中隊長まで務めた人物です。1607年に負傷を理由にいったん故郷に戻り、結婚で財産を得て傭兵稼業を始めていました。このハンザ同盟軍の指揮が彼にとっての初めての大仕事だったようです。
7月、ウィーンハウゼンに集結したハンザ同盟軍に対し、フリードリヒ=ウルリヒは補給を遮断することには成功しました。しかしハンザ同盟軍の防衛するウィーンハウゼンを攻略することまではできませんでした。
9月に入り、フリードリヒ=ウルリヒの軍は高台の砦からブラウンシュヴァイク市に対して砲撃を始めます。同時に塹壕も市壁に迫っていました。ブラウンシュヴァイク市は市民に防衛を呼び掛け、多くの女性たちも防衛に参加しました。八十年戦争初期のオランダでもよく見られた光景です(「反乱」のヒロインたち 参照)。ここで有名になったのが、 ゲッシェ・マイブルク(ゲスケ・マグデブルク)という女性です。自ら複数の武器を駆使して、敵兵士を何人も撃退したそうです。冒頭の記述のように、マスケット銃を撃ちかけても弾が避けていったなどという不死身伝説まで伝えられています。
この市民総出の抵抗により、フリードリヒ=ウルリヒ側の急襲は失敗しました。同時に、この2カ月間にクニプハウゼン男爵は、ウィーンハウゼンからブラウンシュヴァイク市までのルートを確保し、その包囲網の一部を破っていました。
10月9日、ハンザ同盟の主力軍を率いたゾルムス=レーデルハイム伯フリードリヒがウィーンハウゼンに到着しました。10月11日、ハンザ同盟軍はブラウンシュヴァイク市に向けて進軍し、3週間程度の小競り合いが続いた後、冬の到来を期にフリードリヒ=ウルリヒは軍を退きました。
オランダ軍の動向について
ゾルムス=レーデルハイム伯の軍にはオランダ軍も合流する予定でした。ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクとナッサウ=ジーゲン伯ハンス=エルンストは、おそらくブラウンシュヴァイク市からの要請に応じた連邦議会の指示で、ハンザ同盟軍に助力するべく、中立地域であるミュンスター司教領を通過し進軍していました。ヴェ―ザー川沿いのシュリュッセルベルクに着いたとき、フリードリヒ=ウルリヒの退却が伝えられ、オランダ軍は戦うことなく帰国することになりました。
ところでオランダ軍といえば、ナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミールの妻がフリードリヒ=ウルリヒの妹である侯女ゾフィー=ヘートヴィヒです。あくまでハンザ都市から連邦議会への要請であるせいか、オランダ軍が侯ではなく市の側についたのも興味深い一面です。
余波
この戦いはナッサウ=ジーゲン伯ヤン七世およびリューベック市長の仲介のもと、「シュテッターブルク条約(1615/12/12)」として終結しました。
酒が原因で客死した父同様、アルコール依存症だったフリードリヒ=ウルリヒはその翌年の1616年から6年間、実の母とその弟であるデンマーク国王クリスチャン四世によって国政から排除される羽目になります。その間内政はますます悪化すると同時に、フリードリヒ=ウルリヒが復帰した1622年は既に三十年戦争の真っ只中で、プロテスタントの周辺諸国の旗色も相当に悪くなっている時期でした。ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯国はカトリック・プロテスタント双方からの略奪にさらされ、フリードリヒ=ウルリヒに嗣子がないことも手伝って、彼の死と同時にリューネブルク侯たちに分割継承されることになってしまいました。
ブラウンシュヴァイクのジャンヌ・ダルクとまで揶揄されたゲッシェ・マイブルクのその後はわかりません。1年半後の1617年4月に36歳の若さで亡くなっているようです。
ハンザ同盟軍を率いた2人の司令官たちは、この後も傭兵を続け、三十年戦争で活躍します。ゾルムス=レーデルハイム伯は1625年以降アンスバッハ辺境伯領の専任となりました。クニプハウゼン男爵は1620年代こそプロテスタント陣営で敗北を続けたものの、スウェーデン軍に志願した後は異例の速さで元帥にまで上り詰めています。