対戦国 | フランス |
スペイン |
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勝 敗 | △ | △ |
参加者 | ヌヴェール公シャルル(カルロ一世ゴンザーガ=ネヴェルス) ルイ十三世 枢機卿リシュリュー公アルマン=ジャン・デュ・プレシ モンモランシー公アンリ二世 トワラ侯ジャン・ド・サン=ボネ ナンテュイユ=ル=オードゥワン伯アンリ・ド・ションベール |
グアスタッラ公フェランテ二世(途中病死) マラテーア公ゴンザロ=フェルナンデス・デ・コルドバ ロス=バルバセス侯アンブロジオ・スピノラ(途中病死) トゥルシー侯カルロ・ドーリア サヴォイア公カルロ一世エマヌエーレ(途中病死) ピエモンテ公(のちサヴォイア公)ヴィットーリオ一世アメデーオ コラルト伯ロンバルド八世(途中病死) ルチェーラ公マティアス・ガラス アルトリンゲン伯ヨハン |
当時新進気鋭だった画家ルーベンスを抱え、領地マントヴァを文化芸術の都として繁栄させたマントヴァ公ヴィンチェンツォ一世ゴンザーガ。3人の息子にも恵まれた彼は、自らの死のわずか15年後、このマントヴァが継承権をめぐる争いによって荒廃してしまうなどとは夢にも思わなかったであろう。そして奇しくもこの戦争は、ひとりのイタリア人の退場と、ひとりのイタリア人の登場の舞台ともなる。
私は誠実に仕えたはずだ…。四十年間に及ぶ私の奉仕に対して、この仕打ちはなかろうに…。
ロス=バルバセス侯アンブロジオ・スピノラ/アルトゥーロ・ペレス・レベルテ『アラトリステ ブレダの太陽』
経緯
冒頭の画像は、画家ルーベンスがマントヴァ公の客人時代に描いたマントヴァ公ヴィンチェンツォ一世ゴンザーガ。彼には3人の息子がいましたが、ヴィンチェンツォ一世の死後、次々に男子を残さず早世してしまい、継承問題が勃発します。
1609-1614年のユーリヒ=クレーフェ継承戦争よりも若干系図が複雑なので、まずは家系図を示します。ヴィンチェンツォ一世の父グリエルモ(マントヴァ公がモンフェラート公も兼ねるようになった初代)の時代からの図です。ちなみに、ヌヴェール公は三代全員シャルル(カルロ)で紛らわしいため、この記事内ではマントヴァ公・モンフェラート公継承前のフランス名(ヌヴェール公・マイエンヌ公)で記載することにします。
※ マントヴァ公となった人物は太字、数字はグリエルモから数えて継承順、◆のマリアは同一人物。
- グリエルモ (1)
- ヴィンチェンツォ一世 (2)
- フランチェスコ四世 (3) × サヴォイア公女マルゲリータ
- マリア◆
- フェルディナンド一世 (4)
- マルゲリータ × ロレーヌ公アンリ二世
- ヴィンチェンツォ二世 (5)
- エレオノーラ × 神聖ローマ皇帝フェルディナント二世
- フランチェスコ四世 (3) × サヴォイア公女マルゲリータ
- ヴィンチェンツォ一世 (2)
- ルドヴィーコ
- ヌヴェール公シャルル(カルロ一世ゴンザーガ=ネヴェルス) (6)
- マイエンヌ公シャルル(カルロ・ゴンザーガ=ネヴェルス) × マリア◆
- カルロ二世ゴンザーガ=ネヴェルス (7)
- マイエンヌ公シャルル(カルロ・ゴンザーガ=ネヴェルス) × マリア◆
- ヌヴェール公シャルル(カルロ一世ゴンザーガ=ネヴェルス) (6)
なお、マントヴァとモンフェラートは、当時スペイン領だったミラノ公国を東西から挟むかたちの飛び地の領地になります。重要なのは、この2つの公国がそれぞれ女子の継承について異なった慣習をもっていたことです。マントヴァは男子の継承しか認められていませんでした。これが問題をさらにややこしくしています。
ヴィンチェンツォ二世が1627年に死亡したとき、継承に名乗りをあげたのは3名でした。それに対抗し、スペインが擁したのがゴンザーガ家遠縁のグアスタッラ公(家名はゴンザーガ家)です。この頃たまたまスペイン軍で軍務に就いていました。
- ヌヴェール公シャルル ヴィンチェンツォ一世の従弟。さらに息子のマイエンヌ公と、ヴィンチェンツォ一世の孫娘マリアを急遽結婚させて継承権の強化を図る。
- サヴォイア公カルロ一世エマヌエーレ フランチェスコ四世の舅。孫娘マリアのモンフェラート継承権を主張。
ロレーヌ公シャルル四世 ヴィンチェンツォ一世の孫娘の娘婿。- グアスタッラ公フェランテ二世 グリエルモの従弟の孫、という遠縁。
サヴォイア公とロレーヌ公は女系を根拠とした主張のため、モンフェラートはともかく、少なくともマントヴァを継承できる正統性は保持していません。ここで実質的にはヌヴェール公とグアスタッラ公の間の紛争となります。
当初2013年にこの記事を書いた際、日本語の資料を参考に、無批判に候補者を4名としました。が、「ロレーヌ公」はヴィンチェンツォ一世の娘婿であるアンリ二世が1624年に死亡しているため、1627年時点のロレーヌ公はさらにその娘婿のシャルル四世(アンリ二世の甥でもあり、ヴィンチェンツォ一世から見ると娘の娘の婿)となります。さすがに女系二代挟んで遠すぎなのと、他の資料ではロレーヌ公に言及しているものを探せないことから、いちおうここには残しておきますがおそらく誤りです。
周到なヌヴェール公はヴィンチェンツォ二世危篤の報を受け取ると、息子のマイエンヌ公と推定相続人であるマリアとの縁談を急ぎ、ヴィンチェンツォ二世の亡くなったまさにその日に結婚させました。そして自らも即日、マントヴァ公への即位を表明します。スペインのミラノ総督コルドバ将軍はヌヴェール公の動きに警戒を持ち、事前に本国に何度も報告していましたが、本国からは特別何の指示もありませんでした。
ヌヴェール公はフランスの同輩特権を持つ貴族(Pair de France)で、彼がマントヴァ公を継承すると、スペイン領ミラノの両側でフランスの影響が強まることとなります。それ自体スペインおよびハプスブルク家にとって好ましいことではありませんが、さらに、「スペイン街道」の中でも重要な回廊のひとつ、ミラノ北部を通るヴァルテリーナ渓谷の保持にも不都合です。それがスペインが対抗馬を立ててまでこの問題に介入した理由です。もっとも、表面的な理由は、ヌヴェール公のやり口が汚いという不服申立となっています。
いずれにしても、マントヴァ公国もモンフェラート公国も神聖ローマ帝国の一部なので、継承には神聖ローマ皇帝の裁可が必要となります。コルドバ将軍は、対仏の利害を同じくするサヴォイア公に共同で事に当たることを持ちかけ、他方で威嚇のためスペイン軍をモンフェラートへ進軍させる許可を皇帝フェルディナント二世に求めました。この時点では、スペインはあくまで示威行動を意図していて、戦争へ進展させるつもりはありませんでした。
第一次カザーレ侵攻
その間にも、ヌヴェール公は自らマントヴァへ乗り込み、手続が前後してしまったことへの謝罪と公位継承への認可を皇帝に申し入れていました。皇帝フェルディナント二世はスペインの援軍要請に応えるべく、北ドイツにいるヴァレンシュタイン将軍をマントヴァへ呼び寄せようとしますが、にべも無く断られてしまいます。そうこうして皇帝の対応が滞っているうちに、しびれを切らしたスペイン軍はモンフェラートに進軍を始めてしまいました。スペインの宰相オリバーレス公伯爵は、「サヴォイア公がモンフェラートに侵入するのを監視する」という名目を堅持するようコルドバ将軍に要請していましたが、スペイン軍はサヴォイア公よりも先にモンフェラートに入ってしまいました。これでは単なるスペイン軍による無認可の侵攻で、どんな名分も言い訳も立ちません。
そのままスペイン軍はモンフェラートの首都カザーレの攻囲をはじめました。しかしここまでの間にカザーレは防備を強化していて、攻囲は既に長期化が避けられない様相を呈していました。
ルイ十三世の親征とスーザ条約(1629)
当時のフランスでは、臣下であるヌヴェール公を支援するという基本方針を持ちつつも、国王ルイ十三世もリシュリュー枢機卿も国内問題にかかりきりとなっていました。ユグノーの反乱への対処のためラ・ロシェル攻囲戦を戦いつつ、王母マリーと王弟ガストンの陰謀にも警戒しなければならない状況です。そしてヌヴェール公への支援すなわち現在攻囲されているカザーレの救援は、攻囲をしている相手であるスペインと、カザーレへの通り道にあたるサヴォイア両国との軍事衝突の危険性を意味しています。しかも面倒なことに、その遠征軍の司令官を熱望しているのが王弟ガストンでした。へまをされても活躍されても、兄王ルイ十三世にとっては何も良いことはありません。
1628年10月ラ・ロシェル攻囲戦に決着がつくと、リシュリューはこの2つの問題を同時に片付けるプランを思いつきます。ラ・ロシェルそのままの足で国王自らがモンフェラートに向かうというものです。冬期のアルプス越えを敢行しサヴォイアに到着したフランス軍は、国境の街スーザを占領すると、サヴォイア公(ちなみに息子ピエモンテ公の妃はルイ十三世の妹クリスティーヌ)と通行許可の交渉をはじめました。
3月、この交渉はスーザ条約として調印されました。サヴォイア公はフランス軍の通行を許可し、カザーレ救援を支援する。さらに今後マントヴァへの介入は自重する。その代わりとしてフランスはスーザの返還を保証する。また、サヴォイアの主張するモンフェラートの一部の領地の領有を認める。といった内容です。さらに秘密条項もいくつかあり、その中にはスペイン軍にカザーレ撤退を勧告するという内容も含まれていたようです。
コルドバ将軍は、国境に現れたフランス国王の大軍にミラノの軍だけではとても太刀打ちできない、との表向きの理由でカザーレ攻囲を取りやめ軍を撤収しました。フランスとスペインとの直接対決は回避されました。ところがこのときちょうど、遅まきながら皇帝は元帥コラルト伯の軍をヴァルテリーナ渓谷に差し向けたところで、皇帝軍を待って合流すればスペイン軍はフランス軍を上回る人数を揃えられるはずでした。コルドバ将軍はその責を負ってミラノ総督の地位を失いマドリードに召還されます。そして5月、その後任としてミラノに派遣されたのは、前年にフランドルからマドリードに呼び戻されていたロス=バルバセス侯アンブロジオ・スピノラ将軍でした。
第二次カザーレ侵攻
1629年は皇帝フェルディナント二世にとって順風の時期でした。スーザ条約と時を同じくする3月に「復旧令」を発令して新教徒に対し教会領の返還を命じ、さらに6月には「リューベック和約」でデンマークをドイツから駆逐していました。ここで余力を得たフェルディナント二世は同年秋、スペインの要請に応じて、コラルト伯、ルチェーラ公マティアス・ガラス、アルトリンゲン伯ヨハンの3人の将軍にマントヴァを包囲させます。ヌヴェール公はマントヴァからの一時撤退を強いられ、街は飢餓と伝染病に苦しむことになりました。
一方ミラノの新総督スピノラ侯には、マントヴァの皇帝軍に呼応して再度カザーレ攻囲を行うよう指示が出されます。フランスでは、秋にパリに戻ったばかりのリシュリュー枢機卿がヌヴェール公からのマントヴァへの援軍要請を受け取っていましたが、マントヴァ救援は不可能と判断し、まずは再びモンフェラートへ向かうことにしました。国王がパリを離れられなかったので、今回はリシュリュー枢機卿が司令官です。これも前年のスペイン軍同様、視察が名目上の目的で、戦闘行為を意図してはいません。
するとまたもや、通り道のサヴォイアがフランス軍の通行に難色を示します。1630年3月、フランス軍は国境の街ピネローロを武力占拠して補給拠点とし、モンフェラート公領へ直接通じるルートを確保しました。ここに至りフランスとサヴォイアは、そしてカザーレ到着時点でフランスとスペインは交戦状態に突入したことになります。フランス軍はトワラ侯、スペイン軍はスピノラ侯の指揮下でカザーレ攻囲が続けられました。
マントヴァ略奪
マントヴァは1630年7月、半年にわたる包囲の末皇帝軍に降伏します。その後、街はマティアス・ガラスとアルトリンゲン伯によって徹底的に破壊・略奪されました。女子供も容赦なく殺され、マントヴァ公の宮殿からは宝物類が持ち出されました。それでも持ち出されたものはまだ良いほうで、燃えてしまった名画も多数ありました。とくにイタリアでも有数の蔵書を誇る図書館の被害が甚大で、一族の聖職者たちが代々収集してきた史料も灰になりました。皇帝フェルディナント二世の皇妃はマントヴァ公ヴィンチェンツォ一世の末娘で、幼少期はこの宮殿で暮らしていたのですが、そんなことも皇帝軍にとってはお構いなしだったようです。
ところで、マントヴァ略奪に次いでこの1630年の後半には、当事者たちが次々と病死しました。
- サヴォイア公 7月26日
- グアスタッラ公 8月5日
- スピノラ侯 9月25日
- コラルト伯 11月19日
ピエモンテ公から新サヴォイア公となったヴィットーリオ一世アメデーオは、即刻和平を望みました。現状、サヴォイアにとって何も利となることはないためです。ヌヴェール公にとっても、マントヴァ陥落が交渉の契機になったと同時に、継承権を主張していたグアスタッラ公が折良く死亡したことで、継承そのものは確実に既成事実化できます。なお現場のカザーレでは、教皇特使のジュリオ・マッツァリーノ(後のフランス宰相ジュール・マザラン枢機卿)の仲介で9月8日に一時停戦協定が結ばれていました。しかし暫定的なこの措置はスペイン・フランス双方とも納得いくものではなく、スピノラ将軍はその直後、失意の中で病没しています。
レーゲンスブルク和約(1630)
前年の1629年の好調の波が嘘のように、フェルディナント二世の側も夏以降難問を抱えていました。7月、スウェーデン国王グスタフ二世アドルフのドイツ上陸の報に接し、さらに翌月からはじまったレーゲンスブルク帝国議会では、昨年の「復旧令」に激怒した諸侯たちから、息子フェルディナント(後の三世皇帝)のローマ王選出を盾に、ヴァレンシュタイン将軍の罷免を迫られていたからです。
そのため、首都陥落と対立候補の死亡により落としどころの見えてきたマントヴァ問題を早期に解決することは、皇帝にとっても望ましいものでした。この帝国会議の期間中に交渉がもたれ、10月、関係者間でマントヴァ継承問題は「レーゲンスブルク和約」として調印されます。ここでヌヴェール公は正式にマントヴァ公およびモンフェラート公として承認されることとなりました。
ところがこの内容に激怒したのがリシュリュー枢機卿です。というのも、フランスの大使たちがリシュリューに諮らずに合意したこの和約では「フランスはドイツ問題に干渉しない」旨が約されていて、今まさにスウェーデン国王と同盟を結んでドイツ介入を考えていたリシュリューにとっては到底受け入れられないものでした。リシュリューは自分と入れ替わりにモンフェラートへ向かうションベール元帥に、9月8日の一時停戦を破ってカザーレを攻撃するよう指示を出しました。もちろんこれは、停戦の破棄だけではなく「レーゲンスブルク和約」の拒否をも意味しています。
余波
ケラスコ条約(1631)
さらに半年ほどのち、教皇特使マッツァリーノの調停によって、フランス、スペイン、神聖ローマ帝国、サヴォイア間で「ケラスコ条約」が調印の運びとなりました。あらためてヌヴェール公のマントヴァ=モンフェラート継承が確認されるとともに、サヴォイア公は、モンフェラート継承の主張の取り下げと引き換えにトリーノとアルバを得る。グアスタッラ公(前年病死したフェランテ二世の息子チェーザレ二世)は、マントヴァ継承の主張の取り下げと引き換えにレッジョーロとルッザーラを得る。フランス、スペイン、神聖ローマ帝国は兵を退く義務のみで、特別な制限条項はなし。とくにフランスにとっては「レーゲンスブルク和約」時のようなドイツ不干渉条項が無いことが重要でした。この交渉の中で、フランスとサヴォイアの間では独自に再度秘密条項が盛り込まれ、フランスが前年に占領したピネローロはフランス領有のままとなります。
この条約の6年後の1637年、サヴォイア公とマントヴァ公(ヌヴェール公)はともに亡くなり、それぞれの領地は女性による摂政政治に入ります。
教皇特使マッツァリーノはパリ大使となったのち1639年にはフランスに帰化し、リシュリュー死後、枢機卿マザランとしてフランス王権強化と反ハプスブルクの政策軸を受け継いでいくことになります。
そしてスペインおよびオリバーレス公伯のこのマントヴァ問題に対する初動態勢の遅延が、スペイン没落の原因となったということはおおかたの見方として共通しているようです。そもそも解決まで3年以上もかかってしまったことが問題でした。もっとも、スペインの衰退の兆候は既に見えていたので、直接原因というよりも加速要因といったほうが正しいかもしれません。
オランダへの影響
最後に、一見まったく関係ないかに見えるオランダへの影響について。
1627年末から1631年夏のこの3年半のあいだ、オランダの対スペイン状況は明らかに好転しています。オランイェ公マウリッツが死去しブレダがスペインに占領された1625年を底とするなら、
- 1627年 新オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの初の大規模遠征の成功(フロール奪還)
- 1628年 ピート・ヘインによるスペイン銀艦隊拿捕/スピノラ侯のスペイン召還
- 1629年 ヴェーゼル(ライン河岸)奪還/スヘルトヘンボス(マース河岸)奪還
- 1630年 レシフェ(ポルトガル領ブラジル)の占領
と登り調子一辺倒で、一時はブリュッセルの執政府(執政イザベラ大公妃)との間で話し合われていた新たな休戦交渉も、ことごとく暗礁に乗り上げました。加えて、スピノラ侯亡き後の執政府では反大公妃勢力が台頭し、和平推進派の大公妃自身も1633年に死去します。
逆にスペインからすれば、「二方面作戦の一方のマントヴァ戦を早期に解決してオランダ戦に注力し、さらに皇帝軍の助力を得てフランドルとドイツからオランダを挟撃する」、という作戦は完全に頓挫しました。おそらくこの方法がスペインにとって――オランダを完全にスペインに再帰属させるのは無理にせよ――スペイン有利でオランダ戦線を終わらせることのできる最後の好機だったといえます。ちょうどデンマーク退場からスウェーデン登場までのハプスブルク陣営の優位の期間、このマントヴァ問題によってスペインと皇帝がイタリアに釘付けになっていたという状況が、間接的にオランダを救ったといえるかもしれません。
リファレンス
記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。
- 北原敦編『イタリア史(新版 世界各国史)』山川出版社、2008年
- 色摩力夫『黄昏のスペイン帝国―オリバーレスとリシュリュー』、中央公論社、1986年
- J.H. エリオット(藤田一成 訳)『リシュリューとオリバーレス―17世紀ヨーロッパの抗争』、岩波書店、1988年
- Wilson, “Thirty Years War”