- イングランド王女、プファルツ選帝侯妃(ボヘミア王妃 Queen of Bohemia)
- 生年: 1596/8/19 フォークランド宮殿(スコットランド)
- 没年/埋葬地: 1662/2/13 ロンドン(英)/ウェストミンスター寺院
生涯
※長女のエリーザベトとの混同を避けるため、本サイトでは「エリザベス」の表記で統一します。
イングランド国王ジェームズ一世の王女。彼女の求婚者にはスウェーデン国王グスタフ二世アドルフなども居ましたが、ジェームズがドイツのプロテスタント同盟の諸侯たちとの関係を重視したため、1613年、プファルツ選帝侯フリードリヒ五世と結婚しました。このフリードリヒがボヘミア王位を受けたことから、彼女の人生も暗転することになります。それが後に「三十年戦争」と呼ばれる長い戦争の端緒となるわけですが、1620年の「白山の戦い」に敗れたのち、彼らは王位を追われ、確たる援助もないまま各地を転々としたあと、最終的にフリードリヒの伯父オランイェ公マウリッツを頼って200人以上の廷臣と共にハーグに亡命しました。ハーグではイングランド大使カールトンの屋敷に身を寄せ、のちマウリッツの弟オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの時代になってからは、彼らの建築した宮殿にも住んでいます。1661年、王政復古したイングランドに渡り、翌年ロンドンで亡くなりました。
聡明なエリザベスは「慈愛の王妃」とも呼ばれ、各地で人気が高かった人物です。オランイェ公たちはフリードリヒのおじにあたる近親でもありましたが、さらにエリザベスの侍女アマーリアがフレデリク=ヘンドリクと結婚したため、ハーグでもオランイェ=ナッサウ家とは良好な関係を持ち続けました。またハーグ時代には各種芸術を推奨し、画家や建築家などを実家のイングランド王家や、オランイェ=ナッサウ家など周辺諸国の王侯に紹介したりもしています。
反して、家族関係は必ずしも幸福だったとはいえません。夫フリードリヒは36歳の若さで病死。そのフリードリヒとの夫婦仲は良く13人もの子供をもうけましたが、幼児期に亡くなった3人を除いても、長男を含む4人を自分よりも早く亡くし、さらに残った子のうち3人は非婚でした。また、子供のうち2人はカトリックに改宗して家を離れ、長女エリーザベトとの折り合いも良くありませんでした。なお、フリードリヒ五世があまり「ボヘミア王」と書かれないのに反し、エリザベスは「ボヘミア王妃」と表記されることが多いようです。
リファレンス
- ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
- 1911 Encyclopædia Britannica
- “DNB00“