エセックス伯父子 Robert Devereux, 2nd/3rd Earl of Essex

Escudo Stafford Devereux

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同名の親子。名前は同じでありながら、生きている時代がまったく違います。最終的に王権と対立する立場となってしまうのは共通しています。

第二代エセックス伯ロバート・デヴァルー Robert Devereux, 2nd Earl of Essex

Marcus Gheeraerts II Robert Devereux 2nd Earl of Essex

Marcus Gheeraerts the Younger (circa 1596-1601) In Wikimedia Commons

  • 第二代エセックス伯 2nd Earl of Essex
  • 生年: 1565/11/10 ブロムヤード(英)
  • 没年/埋葬地: 1601/2/25 ロンドン/聖ピーター・アドビンキュラ教会(英)

生涯

エリザベス一世の寵臣のひとり。エリザベスを扱う映画や小説にも必ずといっていいほど登場します。プロテスタントの軍人として、対スペイン戦やアイルランド戦に参戦していますが、国内では宰相セシル親子と敵対し、最終的にはエリザベス一世に対する反逆を犯したとして処刑されています。

カディス遠征(1596)とアゾレス諸島遠征(1597)では、オランダ軍とともに船団を組んで遠征をおこなっています。それぞれ個別戦闘の記事で詳述する予定です。(準備中)

もうひとりのシェイクスピア
このサイトでも紹介している映画。とくにこの映画では、エセックス伯の描き方が他のエリザベスを扱った映画とほぼ正反対で、比較するとおもしろい。

オランダに関する部分では、実はあまり知られていませんが、女王の寵臣となる以前にレスター伯(母親の再婚相手)に従ってネーデルランドに派兵されてきており、ワルンスフェルトの戦い(1586)などにも参戦しています。この戦いで戦死したフィリップ・シドニーの寡婦フランセスと結婚しました。その後フランスのアンリ四世の第八次ユグノー戦争にも加勢しています。

また、オランダ軍と共同しての二度の遠征も特筆すべきです。1596年のカディス遠征、翌年のアゾレス諸島遠征では中心的な役割を演じました。いずれの遠征でも、駐蘭英軍のフランシス・ヴィアー将軍とナッサウ伯ローデウェイク=ヒュンテルを伴っていて、どちらとも非常に関係が良かったようです。とくにローデウェイク=ヒュンテルとは気が合ったらしく、直接エリザベス女王に紹介したり、一度オランダに彼を訪ねてもきているようです。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

第三代エセックス伯ロバート・デヴァルー Robert Devereux, 3rd Earl of Essex

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Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • 第三代エセックス伯 3rd Earl of Essex
  • 生年: 1591/1/11 ロンドン(英)
  • 没年/埋葬地: 1646/9/14 ロンドン/ウェストミンスター寺院(英)

生涯

第二代エセックス伯ロバート・デヴァルーの同名の一人息子。母親はウォルシンガム卿フランシスの一人娘フランセス。父がエリザベス女王への大逆罪で処刑されましたが、新王ジェームズ一世は息子のロバートにエセックス伯の継承を許し、自らの王太子ヘンリー=フレデリクの友人としました。

三十代から四十代にかけての壮年期、ロバートは軍人として大陸に渡り転戦します。

  • ヴィアー卿ホレス麾下 プファルツ遠征
  • オランイェ公マウリッツ麾下 ベルヘン=オプ=ゾーム攻囲戦
  • マンスフェルト伯エルンスト麾下 フルーリュスの戦い
  • 自身がイングランド連隊長として ブレダ攻囲戦
  • セシル卿エドワード麾下 カディス遠征

特別めざましい戦果を挙げたわけではありませんが、この時期の経験をもとに、イングランド内戦で活躍することになります。

イングランド内戦では議会派軍として参戦しましたが、ここでは詳述しません。しかし途中、クロムウェルやフェアファクスらとの意見の相違から、マンチェスター伯とともに軍務から離れることになります。その翌年、狩の最中に倒れ、脳梗塞で亡くなりました。

二度結婚していますが、どちらも相当に不幸な終わり方をしていて、嫡子は居ません。現代では、男性ホルモンの不足する病気だったのではないか、とする説もあるそうです。エセックス伯はいったんここで断絶し、彼の持つヘリフォード子爵位のみ従兄弟に継承されています。

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