ナッサウ伯やゾルムス伯もぞろぞろいますが、マンスフェルト伯もたくさんいます。
なお、親子同名のペーター=エルンストは、
- 父 → ペーター・マンスフェルト
- 息子 → エルンスト・マンスフェルト
と書かれているものが多い気がします。生き方も死に方(?)もまったく対照的な父子です。
ペーター一世エルンスト・フォン・マンスフェルト Peter Ernst I von Mansfeld-Vorderort
- マンスフェルト伯 Graf von Mansfeld-Vorderort、南ネーデルランド執政 Landvoogd van de Zuidelijke Nederlanden、ルクセンブルク州総督 Stadhouder van Luxemburg
- 生年: 1517/7/20 ザクセン(独)
- 没年/埋葬地: 1604/5/22 ルクセンブルク(ルクセンブルク)
生涯
カール五世時代からの古参の軍人。金羊毛騎士。若い頃はカール五世旗下で、チュニスやルクセンブルクで戦いました。
フェリペ二世時代の初期、ネーデルランドでの貴族たちの反抗に当初こそ加わるものの、メヘレン司教やグランヴェル枢機卿の影響で反乱サイドを離れ、パルマ公妃マルガレータの側近となります。アルバ公の時代には、反乱勢力との融和策をすすめたため、反乱貴族たちの仲間と疑われ、1年間投獄の憂き目に遭ったこともありました。その後アウストリア公ドン・ファン、パルマ公ファルネーゼのもと、フランドル軍司令官として活躍します。ファルネーゼがフランス戦線に転戦すると、その代理として南ネーデルランド執政を代行し、ファルネーゼの死後、次代のオーストリア大公エルンストが赴任するまで、そのまま執政職に留まりました。息子カール同様、同僚のフエンテス伯とは犬猿の仲でした。
1593年のヘールトライデンベルフ攻囲戦では、76歳にして援軍として駆けつけ、50歳も年下のナッサウ伯マウリッツに戦いを挑んでいます。
執政職を退いてからは引退し、州総督を務めるルクセンブルクで天寿を全うしたようです。正式な結婚も三度していますが、それ以上に何人もの女性との間に庶子をもうけています。
リファレンス
カール二世・フォン・マンスフェルト Karl II von Mansfeld
- マンスフェルト伯 Graf von Mansfeld
- 生年: 1543 ルクセンブルク(ルクセンブルク)
- 没年/埋葬地: 1595/8/24 コマーロム(ハンガリー)/ルクセンブルク
生涯
ペーター一世エルンストの正嫡の次男で後継ぎ。カンブレー司教との反目から、当初はネーデルランドの反乱貴族たちに同情的でした。1565年の「盟約」にも署名をしています。が、父ペーターが彼の相続権を取り消そうとしたためスペインに帰順し、フェリペ二世治下のスペイン軍で、将軍または提督として陸海両方で戦いました。
とはいえ、その間にも決闘で相手を死なせてしまったとか、妻を姦通罪で相手共々殺してしまうとか、亡命騒ぎを起こしたりしています。
レパントの海戦の際、アウストリア公ドン・ファンとともに戦い、名誉を回復しました。その後はネーデルランドやフランスを転戦しますが、部下の扱いが非人道的すぎ、慢性的に反乱を起こされていました。また、同僚のフエンテス伯との仲も非常に悪く、たびたび悶着を起こしていました。
1592年のステーンウェイク、1593年のヘールトライデンベルフでナッサウ伯マウリッツとも戦っています。南ネーデルランド執政エルンストが短い任期の後亡くなると、新たに執政となったフエンテス伯との折り合いの悪さからオスマントルコとの戦争に投入されました。ハンガリーのエステルゴム攻囲戦などで戦いましたが、コマーロムで戦死しています。父親が長生きなので若いイメージがありますが、このとき既に五十代。遺体はルクセンブルクの一族の墓に埋葬されています。
リファレンス
ペーター二世エルンスト・フォン・マンスフェルト Peter Ernst II von Mansfeld
- マンスフェルト伯 Graf von Mansfeld
- 生年: 1580 ルクセンブルク(ルクセンブルク)
- 没年/埋葬地: 1626/11/29 ラコヴィツァ(ボスニア)/スプリト(クロアチア)
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