南ネーデルランドの貴族、とくに有力なリーニュ家、ラレン家、クロイ家あたりは、十字軍時代に起源を持ち、16世紀にもなると互いに非常に入り組んだ姻戚関係になっています。また、ちょうど言語境界線付近を拠点にしているため、蘭語または仏語どちらで表記するかも非常に悩みます。このサイト内では、現在一般的に呼ばれる呼び名に従って、地名由来の称号と家名由来の姓名が別言語になっている場合もそのまま並列表記で採用しました。称号が蘭語、家名が仏語になっているものが多いです。
最も有名な「ベルレーモン伯」は兄弟の父のシャルル・ド・ベルレーモン。ネーデルランドの「反乱」初期に、「乞食党」の名前のもとになった台詞を執政のパルマ公妃マルガレータにささやいた人物です。が、より八十年戦争に関わっているのは、どちらかというとその息子たちといえそうです。ここでは3人を挙げてみました。
「乞食党」のはなし/「ヘーゼン」と「ゴイセン」も参照ください。
ベルレーモン伯ジル Gilles de Berlaymont
- ベルレーモン伯 Comte de Berlaymont、イエルジュ男爵 Baron de Hierges、州総督 Stadhouder van Friesland, Groningen, Drenthe, Overijssel, Lingen, Gelre, Zutphen, Holland, Zeeland, Utrecht, Namen en Artesië
- 生年: 1540? ベルレーモン?(仏)
- 没年/埋葬地: 1579/6/18 マーストリヒト(蘭)
生涯
父シャルルとともに「血の評議会」の評議員も務めたことがありますが、どちらかといえば議会よりも戦場を舞台にしていたようです。とくにアウストリア公ドン・ファンに従って、ナミュールの奪取などに活躍しました。
1570年代に、すべてのポストを一時期に務めたわけではありませんが、たくさん(ほぼネーデルランド全域におよぶ)の州の州総督に任じられています。もっとも、この時期すでに反乱軍の手にある州(ホラント・ゼーラントなど)は名目上の地位に過ぎませんでしたが、この構図はジルの死後もかなり後まで続きます。
1579年、パルマ公ファルネーゼによるマーストリヒト攻囲戦で戦死しました。
リファレンス
ベルレーモン伯フローラン Florent de Berlaymont
- ベルレーモン伯 Comte de Berlaymont、ラレン伯 Comte de Lalaing、州総督 Stadhouder van Gelre, Zutphen, Namen, Artesië, Gelre, Zutphen en Luxemburg
- 生年: 1550? ベルレーモン?(仏)
- 没年/埋葬地: 1626/4/3 マーストリヒト(蘭)
生涯
若年期に一度反乱側に身を投じたことがあるようです。が、長兄ジルの死後、ナミュールとアルトワの州総督を引き継ぎ、スペイン国王派に帰参します。さらに末弟クロードの死後にヘルデルラントとズトフェンの、1604年にはマンスフェルト伯のルクセンブルク州総督を継ぎました。
ラレン家の一人娘マルガレーテと結婚したため、1582年にはラレン伯も名乗りました。このようにタイトルだけは次々いろいろなところからもたらされましたが、家庭生活はあまり良くなく、妻の浮気に悩まされたそうです。結局子供が生まれるまで長生きしたのはフローランだけですが、男系はここで途絶えています。
リファレンス
- Wikipedia (nl) Florent van Berlaymont
ベルレーモン伯クロード Claude de Berlaymont
- ベルレーモン伯 Comte de Berlaymont、オートペンヌ卿 Seigneur de Haultpenne、州総督 Stadhouder van Gelre en Zutphen
- 生年: 1550? ベルレーモン?(仏)
- 没年/埋葬地: 1587/7/14 スヘルトヘンボス(蘭)
生涯
兄弟たちと区別するためか、一般的に「オートペンヌ卿」と呼ばれます。
1581年、「オートペンヌの狂暴」と呼ばれる事件で、オランイェ公ウィレム一世から、その父祖の地ブレダを奪うことに成功します。パルマ公ファルネーゼはクロードの能力を高く買い、ケルン戦争に投入しました。1586年ヴェルルの戦いで、オランダの将軍マルティン=シェンクに500対4000で敗れるという大敗を喫してしまいます。その翌年、ホーエンローエ伯フィリップスの軍と戦って重傷を負ったクロードは、スヘルトヘンボスに運ばれてまもなく亡くなりました。
リファレンス
- Wikipedia (nl) Claudius van Berlaymont