- 州総督 Spaanse stadhouder (Friesland, Groningen, Drenthe, Lingen, Overijssel)
- 生年: 1536 タラベラ・デ・ラ・レイナ(西)
- 没年: 1595/9/22 ルクセンブルク(ルクセンブルク)
生涯
スペイン軍古参の将軍にして、スペイン側での最後の各州州総督。傭兵あがりで、生まれは私生児でもあり、その母親は卑しい職業だったともいわれています。アルバ公の時代から反乱軍を相手に戦い、ファルネーゼの死後はフランドル方面軍最高司令官。「マウリッツの十年」でも、ドレンテ、フロニンゲン地方の最後の砦として善戦しました。しかし、共和国軍の前に相次いで街を失い、1594年に就任した執政オーストリア大公エルンストによって左遷されてしまいます。
大公エルンストが急死した1595年、新執政フエンテス伯は信頼するベルデューゴを、フランスのブイヨン公対策としてルクセンブルク戦線に送ります。フエンテス伯の周囲は敵ばかりで、信頼できる同僚は少なかったようです。いったん戦場で体調を崩してルクセンブルクに戻ったベルデューゴは、約半年後、回復したと思った矢先に急死しました。毒殺が疑われています。
隣州フリースラントの州総督ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイクの暗殺をたびたび企んでいました。かといってそれほど卑劣漢とは思われておらず(暗殺は国王フェリペ二世によって奨励されていたという理由もあります)、逆に最初は若造と侮っていたナッサウ伯マウリッツについては惜しみなく賞賛を送るなど、磊落な面も見せています。
息子のうち2人、ギリェルモとフランシスコ(子)は軍人として活躍しました。ギリェルモはやはり庶子だったようですが、スペイン・ヘルデルラントの代官を務め、1606年のブレーデフォールト攻囲戦、1626年のオルデンザール攻囲戦にも名が見られます。
リファレンス
- Motley, “United Netherlands”
- University Leiden, “Personen“