- フランドル方面軍連隊長 Maestre de campo
- 生年: 1504 メディナ・デル・カンポ(西)
- 没年: 1596/1/4 アントウェルペン(白)
生涯
1532年頃からカール五世の軍隊で、イタリア、チュニジア、ブランデンブルク、ザクセンなどを転戦し、1544年からはフランドル戦線に加わります。以来フランドルに居を構え、フランドル人の女性を妻としました。フランドルで「反乱」の様相が強まってくると、アルバ公、レケセンス、パルマ公ファルネーゼ、マンスフェルト伯と、歴代ネーデルランド執政に仕え、オランイェ公ウィレム一世、のちその息子ナッサウ伯マウリッツの率いる反乱軍と戦いました。とはいえ、1572年以降となる「反乱」軍との戦いの時点で、既に60代後半。このとき既に「老モンドラゴン」と呼ばれています。結局92歳まで生き、60年以上現役の軍人だったことになります。
1585年、パルマ公のもとでのアントウェルペン攻囲戦でも、主戦論を唱えるパルマ公を支持して活躍しました。アントウェルペン陥落後はその知事職に任じられています。
最後の戦役は1595年。この頃司令官として評判の上がってきた若いナッサウ伯たちの戦いぶりに興味を持ち、単に「会ってみたいから」という理由で出陣しました。御年91歳。輿に乗ったりせず、自ら馬を駆って渡河したそうです。ベテランの将軍らしく、オランダ軍の奇襲の裏をかき見事なカウンター攻撃を行いました。その際重傷を負って運ばれたナッサウ伯フィリップス、ゾルムス伯エルンストを手当てし、その死後も丁重にオランダ軍へ遺体を返しました。
その冬、アントウェルペンへ戻り、ある朝食卓に着こうとして急に倒れ、そのまま大往生したとのことです。
リファレンス
- Motley, “Rise”
- Motley, “United Netherlands”
- University Leiden, “Personen“