対戦国 | イングランド オランダ |
スペイン |
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勝 敗 | ○ | × |
参加者 | 第13代ウィラビー・ドゥ・アーズビー男爵ペレグリン・バーティー トマス・モーガン グリムストン卿ウィリアム フランシス・ヴィアー パウルス・バックス マルセリス・バックス |
パルマ公アレサンドロ・ファルネーゼ マンスフェルト伯ペーター一世エルンスト スタンレー卿ウィリアム |
二月前、フランドルの海岸線で手をこまねいているばかりのパルマ公の眼前で、『無敵艦隊』は歴史的な敗北を喫した。その遺恨戦とばかりに、パルマ公はゼーラントの要衝ベルヘン=オプ=ゾームを標的とする。しかしアルマダに打ち勝ったイングランド軍の勢いは留まるところを知らず、知略を駆使して戦う様にも、もはやかつての突撃一辺倒の粗雑さは見られない。そして近い将来のオランダ軍にとってこの上ない助力となる強力な戦士が、この戦いの中でその頭角を現した。
ヴィアーはまだ若いが、その役目に相応しい経験、技術、思慮深さ、そして勇敢さを兼ね備えている。
ペレグリン・バーティー/”Fighting Veres”
経緯
この年の7月、「アルマダの海戦」の勝利に自身を得たイングランド女王エリザベス一世は、とうとうスペインとの敵対の意思を顕わにしました。一方、あわよくばイングランド上陸の尖兵となろうと海岸でフランドル軍を待機させていたパルマ公ファルネーゼは、結局海軍との合流も果たせず、徒に時間を費やしてしまっただけという不本意な結果に甘んじることになりました。鬱憤を晴らすかのようにパルマ公が向かった先は、ベルヘン=オプ=ゾームです。敢えてブラバントの反乱軍のもとではなくベルヘン=オプ=ゾームに向かったのは、この街がイングランド軍の管轄下にある数都市のうちのひとつであった、ということも考えられるかもしれません。
当時知事職に就いていたのはイングランド人のトマス・モーガン、そして、英蘭混交の守備隊の隊長はウィラビー・ドゥ・アーズビー男爵ペレグリン・バーティーでした。バーティーはモーガンが「アルマダ」対応のためイングランドに帰国している間、ベルヘン=オプ=ゾームの防備を急ピッチで固めていました。ある意味「アルマダの海戦」は、たまたまイングランド側が勝利した結果論です。その事前には相当な覚悟での対策が必要とされ、スペイン軍のイングランド上陸、およびフランドルにあるイングランド軍駐屯都市の攻囲、これら両方に備えをしておかねばなりませんでした。実際、この対策は正解だったといえます。
モーガンがイングランドからベルヘン=オプ=ゾームへ戻ってくると、既にパルマ公は2万の軍勢で攻囲を始めようとしているところでした。が、バーティーは防衛用の堡塁をいくつも建設し、さらには堤防を切って、充分な防備体制を敷いていました。
戦闘
大軍で街を包囲したパルマ公でしたが、水と堡塁に阻まれ、その全軍の力をもっての襲撃は不可能な状態でした。襲撃のポイントは限られているため、必然的に、一度には少人数しか投入できず、自軍の側に損害が出るばかりです。さらに悪いことに、アントウェルペンからパルマ軍に向かっていた補給船がイングランドの分遣隊によって拿捕されてしまいました。その中にはスペイン兵に支払う給与が積まれていたため、パルマ公は給与未払いによる自軍兵士の反乱の危険性までを背負うことになります。
バックス兄弟の活躍
パウルス・バックスとマルセリス・バックスの兄弟は、地元の商人で、街の議員も務めていました。彼らは商人でありながら軍人に憧れていて、「反乱」初期の1572年頃から義勇軍に加わり、その後働きが認められ、自警団(ならず者たちを集めた私兵)を組織することを許可されました。地元であるベルヘン=オプ=ゾームはこの攻囲戦を含め何度も襲撃されていますが、いずれもバックス兄弟とその自警団の手で守られています。
この攻囲戦の際も、当初から街の外の監視を買って出、騎兵の機動力を生かして何度もスペイン兵たちにチャージを仕掛け撃退に貢献しました。1592年、知事のトマス・モーガンが本国イングランドに召還されて以降、兄のパウルスがその後任となります。パウルスはこの時軍務から退きますが、弟のマルセリスは商人出身としては異例の出世(オランダ軍騎兵副官)をし、長らく騎兵の第一人者として活躍しました。
グリムストンの策略
ある日、戦利品を漁っていた酒保商人レッドヘッドは、スペインの将校2人を捕虜としました。スペイン将校は近くのイングランド軍副官ウィリアム・グリムストンの陣で客人として扱われます。その間、レッドヘッドはこのスペイン人たちに、ベルヘン=オプ=ゾームには格子戸が上がっている入口があるのだとぺらぺらと話しました。スペイン将校たちはグリムストンに対し、多額の賄賂を提供するので、その場所へスペイン軍を手引きしてほしいと持ち掛けます。レスター伯時代のイングランド軍将校には、このようなスペイン側の申し出に乗って、自国を裏切り街を売り渡した者が何人かいました。そのうちの一人、スタンレー卿ウィリアムもこのベルヘン=オプ=ゾームにスペイン軍の将校として参戦していました。グリムストンは、自分は実は熱心なカトリックで、スタンレー卿の信奉者でもあると告げます。グリムストンとレッドヘッドはこっそりキャンプを抜け出してパルマ公のもとに向かい、金品と引き換えにスペイン軍への協力を約束しました。
ところがこれは最初からすべて策略で、バーティーの指示によるものでした。多用されていたスペイン側の調略を逆に利用しようとした作戦です。もちろんグリムストンとレッドヘッドには大きな危険が伴います。襲撃当日の夜、2人は互いにロープで縛られた状態で現場へ同行させられました。
胸まで水に浸かる洪水地を横切ってスペイン人たちが門の前にたどり着くと、確かに入口の格子戸は開いていました。スペイン軍はさっそくその場所から街に攻め入ろうとします。ところがその時突然格子戸が下り、スペイン兵は街から締め出される形になりました。すぐ後ろは水、立ち回れるスペースはほんの少ししかありません。スペイン軍は罠に陥ったことにすぐに気が付きましたが、勇敢にも格子戸や要塞に向かって攻撃を始めました。しかしそれもわずかな間で、街の中からイングランド軍が突撃してくると、敗走するしかありませんでした。スペイン側には、2000人のうち半数が殺されるという多大な被害が出ました。さらに敗走中に数百人が溺死し、ほうほうの体で逃げてきた兵たちを見て、パルマ公ははじめ何が起きたか全く理解ができませんでした。
この件で撤退を考え始めたパルマ公は、ナッサウ伯マウリッツ率いる援軍がベルヘン=オプ=ゾーム入りしたことを知ると、その決意を固め、その日のうちに攻囲軍を引き上げました。が、その際にキャンプに火をかけたせいで、逆に自軍の兵士たちが混乱し、その虚を突かれてイングランド軍の追撃を受ける羽目になってしまいました。
ちなみに、グリムストンとレッドヘッドは襲撃の混乱の中、まんまと無傷での脱出に成功し、この戦いの後それぞれ報奨金と年金を受け取っています。
余波
アルマダの勝利で気をよくしているエリザベス一世は、ベルヘン=オプ=ゾームでのパルマ公撃退についてもいたく喜び、司令官のバーティーは昇進のうえ、翌年にはフランスのアンリ四世に助力するよう命じられます。バーティーは自分の後任として、当時無名だったフランシス・ヴィアーを抜擢しました。バーティーの目が確かだったことは、それから15年間のヴィアーの働きが示すとおりです。ヴィアーはバーティーによって騎士に叙された後、本国で女王への初の拝謁も叶え、翌年在蘭イングランド軍の指令職に任じられます。
冒頭に挙げたバーティーの手紙の一文ですが、実は既にヴィアーは若いというほど若くはありません(28歳)。バーティーがこの時33歳なので、年齢的には大差ないといえます。
リファレンス
- “Rise”
- “Veres”
- G.A.Henty, “By England’s Aid”