アレンベルフ侯父子(シャルル/フィリップ=シャルル) Vorst van Ligne-Arenberg

Jean de ligne

Unknown (16th century) In Wikimedia Commons アレンベルフ伯ジャン・ド・リーニュ

南ネーデルランドの貴族、とくに有力なリーニュ家、ラレン家、クロイ家あたりは、十字軍時代に起源を持ち、16世紀にもなると互いに非常に入り組んだ姻戚関係になっています。また、ちょうど言語境界線付近を拠点にしているため、蘭語または仏語どちらで表記するかも非常に悩みます。このサイト内では、現在一般的に呼ばれる呼び名に従って、地名由来の称号と家名由来の姓名が別言語になっている場合もそのまま並列表記で採用しました。称号が蘭語、家名が仏語になっているものが多いです。

トップ画像はシャルルの父初代アレンベルフ伯ジャン・ド・リーニュ。八十年戦争開始のきっかけのひとつとされる1568年の「ヘイリヘルレーの戦い」で、オランイェ公ウィレム一世の弟ナッサウ伯アドルフと相討ちで戦死したとして知られる人物です。父に倣い、その直系の子孫たちはいずれもスペイン国王(おもに南ネーデルランド執政府)に忠実に仕えました。

リファレンス

アレンベルフ侯シャルル・ド・リーニュ Charles de Ligne

Charles DArenberg

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • 第二代アレンベルフ伯のち初代アレンベルフ侯 Vorst en graaf van Arenberg、第五代アールスホト公 Hertog van Aarschot、第六代シメイ公 Prins van Chimay、金羊毛騎士、スペイン「大貴族」
  • 生年: 1550/2/22 フォレンホーフェ(白)
  • 没年/埋葬地: 1616/1/18 アンギャン カプチン修道会(白)

生涯

父の戦死によりグランドツアーを切り上げ、帰国して伯位を継ぎます。当初ネーデルランドの反乱に対しては中立の立場を取ろうとし、そのため本国を離れる期間の長い外交官となりました。1576年にウィーンの宮廷に滞在して伯から侯となっています。しかしこのことでハプスブルク家との関係が深いとされ、本国では州議会によって財産が没収されていました。それが彼に完全に国王派を選択させることになります。

パルマ公ファルネーゼが執政となると、シャルルは騎兵連隊長を命じられ、ケルン戦争やアントウェルペン攻囲戦、第八次ユグノー戦争などを転戦しました。軍功によって1586年に金羊毛騎士となっています。ファルネーゼの死後は再度政治家・外交官となりました。新執政オーストリア大公アルプレヒト七世・スペイン王女イザベラ夫妻のもとでは寝所係や鷹匠係などの高いポストに就きます。また外交官としては、1596年の英仏蘭三国同盟を瓦解させるため、フランスとはヴェルヴァン条約、イングランドとはロンドン条約を結ぶことに成功しました。ヴェルヴァン条約の対価として、仏国王アンリ四世には新王妃マリー・ド・メディシスを紹介しています。

ロンドン条約後に隠居を決意したシャルルは、アンリ四世からアンギャンの領地を購入しました。シャルルは北部のオランダにある領地(既に自分の自由は効かなくなっている土地)や財産をすべて売り払ってその資金とし、アンギャンを拠点とするため城を再建しカプチン修道会なども誘致しました。イングランドのソールズベリー伯ロバート・セシル家の庭園を真似た広大な庭園も建築しました。

晩年に、直系の絶えたアールスホト公とシメイ公を義弟(妻の弟)から継承しました。のちアレンベルフ侯とアールスホト公は長男のフィリップ=シャルルに、シメイ公は三男アレクサンドルに継承されます。

アレンベルフ侯フィリップ=シャルル・ド・リーニュ Philippe-Charles de Ligne

Philippe Charles Darenberg

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • 第二代アレンベルフ侯 Vorst van Arenberg、第六代アールスホト公 Hertog van Aarschot、ゼーフェンベルヘン男爵 Baron van Zevenbergen、金羊毛騎士、スペイン「大貴族」
  • 生年: 1587/10/18 バルバンソン(白)
  • 没年/埋葬地: 1640/9/25 マドリード(西)/アンギャン カプチン修道会(白)

生涯

父シャルル同様に金羊毛騎士とグランデであり、1618年からは国務会議に議席を持ち、外交官として執政夫妻、とくにアルプレヒト大公死後にイザベラに仕えました。

1632年、ファン・デン=ベルフ伯ら複数の貴族たちによる南ネーデルランド離反が起こり、その結果、オランダのオランイェ公フレデリク=ヘンドリクによる「マース川遠征」が成功します。マーストリヒトを含む複数の都市が奪われたこの遠征は執政府を動揺させ、議会ではオランダとの和平を模索すべきとの意見が大勢となりました。しかしこの和平案は執政府の独断で秘密裏に進められたため、スペイン本国への謀反と受け取られてしまい、フィリップ=シャルルはマドリードに送られてしまいます。執政イザベラ自らが釈明の手紙を書いたものの、その後すぐにイザベラが死去してしまったこともあり、フィリップ=シャルルは数年間軟禁状態に置かれ、その慣れない環境で体調を崩してしまいました。

1640年、国王フェリペ四世が再審を告げる手紙を送ったものの、既に衰弱していたフィリップ=シャルルは、その手紙を読んだ数日後に亡くなりました。王室側のこの罪滅ぼしもあるのか、フィリップ=シャルルの長男フィリップ=フランソワはフェリペ四世直属の近衛連隊の将校となり、のち神聖ローマ皇帝により公とされ、スペイン軍のフランドル海軍の最高指令職にまで軍事キャリアを積むことになります。

EnghienParkEnde17Jh

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons 17世紀終わり頃のアンギャン城の庭園