ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリク Hendrik van den Bergh

Portrait du comte Henri de Berghe - Anton van Dyck - Musée Condé

Van Dyck (ca. 1624-29) In Wikimedia Commons

  • スペイン=ヘルデルラント州総督 Stadhouder van Opper-Gelre、ステーフェンスヴェールト卿 Heer van Stevensweert
  • 生年: 1573 ブレーメン(独)
  • 没年: 1638/5/22 ズトフェン/スヘーレンベルフ(蘭)

生涯

ファン・デン=ベルフ伯ウィレム四世の七男。最終的に唯一オランダ側に帰順した人物。長兄ヘルマンとは年齢が一世代離れており、活躍の時期にもややずれがあります。他の兄弟については、「ファン・デン=ベルフ兄弟」へ。

1595年頃からスペイン軍に入り、その年にはさっそくヴェーアトでオランダ軍(位置からいってイングランド軍の可能性のほうが高いですが)の捕虜となって、長兄ヘルマンが5000ギルダーの身代金を工面したようです。その後フランドル方面軍総司令官スピノラ将軍のもと、1606年のフロールで将軍となります。戦歴が長く、従兄弟であるマウリッツとフレデリク=ヘンドリクの2人のオランイェ公兄弟を相手に何度も戦っています。1607年にはフレデリク=ヘンドリクの捕虜になったこともあり、この時は次兄フレデリクが報復の攻撃を計画しましたが、それ以前に保釈されています。

ナッサウ伯たちとの関係は、敵味方同士でありながらそれほど悪くはなく、日常的な書簡のやりとりもおこなっています。また、年齢の近い末妹がオランダ共和国の外交官でもあるクレンボルフ伯フロリス二世に嫁いでいることもあって、クレンボルフ伯とは非常に懇意にしていました。

父ウィレムがスペインに帰参した時点ではまだ子供の年齢だったこともあり、自らの意志でカトリックへ改宗したのは意外に遅く1600年頃のようです。また、軍務についてもどちらかといえば1621年の休戦明け、50歳を過ぎてからのほうが活躍しており、スピノラ将軍の副官としてユーリヒ、ブレダ、フロール、スヘルトヘンボスで戦いました。スピノラ将軍自身が、自らの後継者として指名していたほどです。しかしスピノラ将軍の失脚・死亡以降は徐々に南ネーデルランド執政府に不満を抱くようになり、1632年、従弟フレデリク=ヘンドリクの「マース川遠征」を秘密裏に手助けし、その攻略後他の不満分子とともに、正式に共和国軍に亡命しました。ルールモントやフェンローの占領は彼の根回しによるところも大きいといえます。「南ネーデルランド分割構想」も参照ください。

次兄フレデリクを継ぎ、1618年からスペイン=ヘルデルラント州総督となりましたが、オランダ転向後の1632年以降、このポストはしばらく空位となります。本人は亡命後、フレデリク=ヘンドリクによりその地位と身柄を保障されたうえで、退役し領地に隠居して暮らしました。馬車の事故で事故死したとのことです。

リファレンス

  • Wilson, “Thirty Years War”
  • ADB
  • BWN