フランドル方面軍の他の将軍たち

Altaarstuk 1586

attributed to Anthonie Blocklandt van Montfoort (circa 1570) In Wikimedia Commons

八十年戦争当時のスペイン軍や皇帝軍は、全カトリック=ヨーロッパから人材を募っています。個別に記事を設けた将軍たち以外にも、個性的な面々がいっぱいです。長生き且つ老人になっても現役の将軍が多いですね。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
  • Wilson, “Thirty Years War”
  • Motley, “United Netherlands”

サンチョ・ダビラ Sancho d’Avila

Sancho d'Avila

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • サンティアゴ騎士(1570)
  • 生年: 1523/9/21 アビラ(西)
  • 没年/埋葬地: 1583/3 リスボン(葡)/サン・ファン・バウティスタ教会・アビラ(西)

生涯

カール五世時代にイタリアで名をあげた将軍。当初はアルバ公の護衛隊の隊長として低地地方にやってきました。エグモント伯らを逮捕したのもダビラです。アルバ公失脚後も低地地方に留まり、ミデルブルフ攻囲戦(1572-74)、モーケルヘイデの戦い(1574)などを指揮しました。1576年には、アントウェルペン守備隊の隊長として、アントウェルペン略奪(スペイン兵の狂暴)を主動しています。さすがにこの事件では責任を問われスペインに送還されますが、その後パルマ公ファルネーゼの派遣に伴って、ふたたび低地地方の任務に戻ってきます。

1580年のスペインによるポルトガル併合時、ポルトガルで軍務に就きました。その時の怪我が元で亡くなっています。

リファレンス

  • University Leiden, “Personen
  • Motley, “Rise”

エスケルベック伯バランタン・ド・パルデュー Valentin de Pardieu, Comte d’Esquelbecq

Esquelbecq Eglise Saint Folquin Deo optimo maximo du seigneur de la Motte Valentin de Pardieu

エスケルベック教会の墓標 In Wikimedia Commons

  • エスケルベック伯 Comte d’Esquelbecq、ラ=モット卿 Seigneur de La Motte、グラヴリーヌ知事 Gouverneur de Gravelines、砲兵大将 Lieutenant-Général d’Artillerie
  • 生年: 1520 サン=トメール(仏)
  • 没年: 1595 デュラン(仏)

生涯

フランス生まれの貴族。ラ=モットと呼ばれることが多いようです。スペイン軍の砲兵を率いて戦い、オランダの反乱軍を苦しめました。「ヘントの和平」から「アラス同盟」にかけての一時期、反乱軍に身を置いていたこともあるようです。歴戦の勇士で、1587年のスライス攻囲戦では自身片腕を失っています。70歳を過ぎてからも現役の将軍として、フランスを転戦し、デュラン攻囲戦で戦死しています。

リファレンス

  • BWN
  • Motley, “United Netherlands”

デュ・テライユ侯ルイ・ド・コンブールシエール Louis de Comboursier, Marquis du Terrail

  • デュ・テライユ侯 Marquis du Terrail
  • 生年: ? (仏)
  • 没年: 1609/4/16 ジュネーヴ(スイス)

生涯

まんがにでも出てきそうな、あまりにも濃いキャラだったので、思わず登場させてしまいました。こんなやくざな一生ですが、れっきとした侯爵様です。

デュ・テライユは最初フランス軍で軍務についたものの、嫌気がさして脱走し、オランダに亡命。スペイン軍では地雷の専門家として、「スピノラの1605-1606年遠征」時代のいくつかの攻囲戦で活躍します。しかしオーストリア大公のことを悪し様に言ったために身の危険を感じ、フランスに舞い戻って恩赦を求めます。巡礼をおこなうことを条件にフランス宮廷に戻ることを許され、しばらくは滞在しますが、ある貴族と口論になって、あろうことか国王の目の前でその貴族を殺してしまいました。デュ・テライユは再度オランダに逃れ、スペイン軍にもぐりこみます。

が、スペイン軍があまりに薄給なため、今度はサヴォイア公の軍に仕官しようと思い立ちました。ジュネーヴ攻めを目論んでいるサヴォイア公は火薬の使い手を捜しており、デュ・テライユはひとりの工兵を誘って脱走します。しかしサヴォイアに向かう途中、わざわざジュネーヴを通ったため、2人は怪しまれて捕らえられてしまいます。2人とも拷問にかけられ、すぐにジュネーヴ攻めの計画を自白してしまいました。この出来事を聞きつけたフランス国王アンリ四世が、死刑も止む無しと言ってよこしたため、デュ・テライユはジュネーヴで斬首刑に処せられました。

リファレンス

  • Motley, “United Netherlands”

エスピナル侯カルロス・コロマ Carlos Coloma, Marqués de Espinar

Carlos Coloma

Antoon van Dyck (1641) In Wikimedia Commons

  • エスピナル侯 Marqués de Espinar、イングランド大使、ミラノ総督 Gobernador de Milán
  • 生年: 1566/2/9 アリカンテ(西)
  • 没年: 1637/11/23 マドリード(西)

生涯

スペインの将軍および外交官。軍人家系に生まれ、若年期は地中海方面の戦線に従軍し、その後フエンテス伯に従った仏西戦争(1595年のデュラン攻囲戦等)を皮切りに、オランダ・ドイツ方面を転戦しました。三十年戦争がはじまると、再度オランダ戦線に差し向けられたスピノラ将軍の後を継いで、プファルツ方面軍総司令官となりました。いったんイングランド大使となるも、交渉決裂のため、スピノラ将軍旗下でブレダ攻囲戦に加わっています。(ベラスケスの『ブレダの開城』にも描かれているといわれています)。ふたたびイングランド大使、その後はスペイン本国および執政府の評議員などを務めました。サンティアゴ騎士。

リファレンス

  • Motley, “United Netherlands”