洪水線(堤防決壊戦術) Oude Hollandse Waterlinie

West-Brabantse waterlinie

北ブラバント洪水線 In Wikimedia Commons

洪水線

Waterlinie。英語では Dutch Waterline といいます。堤防を切ることによって河川・運河を人為的に氾濫させ、敵の侵入を阻む、という、まさに「肉を切らせて骨を絶つ」戦法。国土の多くが海抜ゼロメートル以下のオランダならではの国土防衛戦術です。「堤防決壊戦術」ともいいます。

まずは高台に砦をいくつも築き、砦と砦の間の干拓地に水がたまるようにします。この干拓地にはあらかじめ溝や落とし穴を掘ったり、有刺鉄線や地雷を埋設しておきます。水深は敵の歩兵や砲兵が歩行困難な深さであり、かつ、ボートなどを用いるには浅すぎる40cm前後になるよう計算されていました。さらに防御側の移動手段として、浅瀬でも移動できる防御側専用のボートも開発されています。敵に侵入を思いとどまらせるか、進撃してきても水面下の罠にかかるか、砦から狙い撃ちされるか、となるわけです。

's Hertogenbosch 1649 Blaeu''

J. Blaeu (1649) スヘルトヘンボスと周囲の洪水線 In Wikimedia Commons

しかし、人為的とはいえ洪水は洪水。場所によっては街が水浸しになったり、農地が塩害でしばらく使い物にならなくなったりとデメリットも非常に大きいため、あくまでも最終手段であり、頻繁に使われたわけではありません。

歴史は八十年戦争時代に遡り、19世紀には新しい洪水線が整備され、1960年代まで維持され続けてきました(現在も機能させようと思えばできるとか)。19世紀以前のものを「旧洪水線」、19世紀以降のものを「新洪水線」として区別するのが一般的なようです。アムステルダム周辺の新洪水線は、1996年に世界遺産にも登録されています。

ここでは初期の Oude Waterlinie を取り上げます。ベルヘン=オプ=ゾームから、ブレダ、フースデン、デン=ボスを通り、フラーフェまでの南部・東西に伸びる洪水線です。

Zuiderfrontier

共和国=スペイン防衛線と南部洪水線 In Wikimedia Commons

ところで日本で「洪水」というと、土石流や津波のように一瞬で破壊するような激しいものを想像しますが、国土全体が「低地」のオランダでの「洪水」は、数週間から数ヶ月かけてじわじわと水位を上げていくというものです。もちろん、厳冬期になると溜まった水が凍り効果が全くなくなるので、時期も選びます。

「洪水線」は八十年戦争時代から、何度か用いられてきました。

オランイェ公ウィレム一世

戦術としての洪水線の使用をはじめたのはウィレムと言ってもよいでしょう。ただし、あくまでも「苦肉の策」や「背水の陣」の様を呈しているもので、周囲の大反対を受けるほどの大きな犠牲を伴う、デメリットの大きなものでした。

レイデン攻囲戦

Leiden ontzet 1574

Frans Hogenberg (after 1574) レイデン解放 In Wikimedia Commons

1574年の「レイデン攻囲戦」では、スペイン軍に包囲されたレイデン市民は兵糧攻めに遭い、飢餓に苦しんでいました。折りしも、反乱の指導者オランイェ公ウィレム一世の弟ルートヴィヒの戦死によって援軍も不可能となり、運河からの物資の補給だけが最後の望みとなりました。

「人為的に」堤防を切って運河の水位を上げることを、議会に議決させたのはウィレムです。が、補給の平底船がレイデンまで至る高台を越えられるかどうかは当初より疑問視され、農地の犠牲と引き換えにするにはあまりにも成功率の低い賭けであるとして、最後まで抵抗に遭った提案でした。

最初に堤防を切ってから2ヵ月後、たまたま嵐が起きてちょうど高潮とのタイミングが合ったため、補給船は一気に城門まで到達しレイデンは解放されました。しかしそれは運にまかせた結果論で、決して何らかのヒロイックなものではありませんでした。またこの時には「敵兵の足を止める」ことは想定しておらず、「船の航行が可能なまでに運河の水位を上げる」ことのみが目的であり、スペイン兵が逃亡したのはこれもたまたまで、嵐によるパニックが理由だったようです。

「1583年洪水」

ゼーウス=フラーンデレン(ゼーラント最南端の地域) で、人為的におこなわれた洪水。アラス同盟諸州に隣接する共和国最南端の地域で、パルマ公ファルネーゼの進軍を止めるため、州レベルの判断で堤防が切られました。レイデンとの違いは、当初から「足止め」が意図されたことです。翌年には東ゼーラントでも堤防が切られています。

この時の損害は大きく、湿地には塩が入り込んで泥が堆積したり、地域がそれぞれ島のように孤立するばかりか、海抜下に沈んでしまったところもありました。人が住めなくなった地域から人口が流出し、州への経済的なダメージも大きなものでした。堤防を切ったは良いものの、まったく制御のできなかった結果です。

アントウェルペン攻囲戦

Siege of Antwerp 1584-1585 - Het belegh der stadt Antwerpen in den jaeren MDLXXXIV en MDLXXXV (Jan Luyken, 1679)

Jan Luycken (1679) 「アントウェルペン攻囲戦 (1584-85)」 In Wikimedia Commons

スペイン軍によるアントウェルペン攻囲戦(1584-85年)の際、ウィレム一世とアントウェルペン市長シント=アルデホンデ卿フィリップ・ファン・マルニクスは、堤防を切ってパルマ公アレサンドロ・ファルネーゼの進軍を止める提案をおこなっていました。しかし、牧草地が台無しになるのを嫌った肉屋ギルドの強硬な反対に遭ったこと、さらにウィレム自身の暗殺により、この方法はお蔵入りとなりました。

逆に攻め手側のパルマ公のほうが、街の南部の要所要所で堤防を切って、先に制圧したヘントからの物資の輸送のため、スヘルデ川の水運ではなく、運河が建設されるまでの一時期この浸水地で平底船を使用しました。

さらに、攻囲開始から1年が経とうとする頃、ようやくシント=アルデホンデ卿の案が容れられて街の北部でも堤防が切られます。これは海戦ができるほどに大規模なものでしたが、反乱軍の詰めの甘さから結果的には失敗に終わってしまっています。

ナッサウ伯マウリッツ

Willemstad NL 1586

S. D. van Dueren (1586) ウィレムスタット In Wikimedia Commons

1586年、おそらく先の1583年/1585年の洪水の反省を受けて、制御可能な「洪水線」、すなわちシステマチックな「堤防決壊戦術」を最初に考えたのは、ウィレムの次男ナッサウ伯マウリッツの師であるシモン・ステフィンだったと言われています。早くも1589年から、マウリッツも「洪水線」の研究を始めました。これは「軍制改革」に着手した年と同じなので、この「洪水線」も軍制改革の一端だったと思われます。「旧オランダ式築城術」も参照ください。

ウィレム暗殺翌年の1585年、マウリッツは父が要塞化を始めた小村ライヘンヒルを正式に「ウィレムスタット」と改名したうえ、防備の強化を命じます。南部洪水線の中でも、最も初期に建設の始まった街と思われます。街は七芒星の形に整備され、その一つ一つの鋭角に七州の名がつけられ、スペインに対する共和国の団結の象徴とされました。

先にも書いたように、この戦法は多大な損害も発生するため、マウリッツ自身はこの戦術を行使することには相当に消極的だったようです。ただ、理論としてはほぼ完成され、実際に土木工事も始められました。「洪水」を使用しなくても、充分に通常の防衛にも役立つからです。1600年前後からは西ゼーウス=フラーンデレンの「共和国=スペイン防衛線」、1605-1606年にはスペイン軍のアンブロジオ・スピノラ将軍対策として、東部エイセル川沿いの防衛線などが建設されています。

「1621年洪水」

十二年休戦条約が明け、一時的に防衛戦力が手薄になってしまったため、やはりスペイン軍の足止め目的でゼーラント州が独自に西ゼーウス=フラーンデレンの「共和国=スペイン防衛線」の一部を切ったもの。既に「洪水線」としての整備や干拓が始まっていたため、1583年ほどの被害はなかったようですが、まだあくまで局地的・暫定的な措置にとどまっています。

オランイェ公フレデリク=ヘンドリク

Tetrarchia Ducatus Gelriae Ruraemundensis (1664)

Paulus van Hillegaert (1635) スヘルトヘンボスからのスペイン軍の撤退 In Wikimedia Commons

マウリッツの後を継いだオランイェ公フレデリク=ヘンドリクは、この戦術理論についても引き継いでいました。実戦を想定して砦と機材を整備し、「意図的に」この戦術を実践した最初の例は、1629年のスヘルトヘンボス攻囲戦です。スヘルトヘンボスは1601年・1603年の2回にわたりマウリッツが奪取に失敗しており、このときも最終的には5ヶ月以上も攻囲が続きました。干拓の第一人者レーフワーテルをはじめとして、当時超一流の技術者陣も招聘されています。

フレデリク=ヘンドリクはマウリッツ同様またはそれ以上に、環状防衛線を得意としました。街の周辺を数十kmに渡り、文字どおり円形に囲んでしまう方法です。環状防衛線は1590年代の「マウリッツの十年」の頃から用いられ、1625年のブレダ攻囲戦の際には敵方のスピノラ将軍も防衛線を二重に築く方法で成功しています。

スヘルトヘンボスはさらにそれを発展させた二重の「環状洪水線」ともいうべきものです。単に辺り一帯を水浸しにするのではなく、泥湿地帯を完全に干拓地と沼沢地に二分し、乾地側には塹壕や地下トンネルを掘り、湿地側を足止め用の水濠にする、と、それぞれの役割をコントロールする非常に完成度の高いものでした。

この後、南部の洪水線からユトレヒトを通って北上する、新しい洪水線の建設も始められました。

「フォッサ・エウヘニアーナ」

Fossa Sanctae Mariae quae et Eugeniana dicitur vulgo De Nieuwe Grift Guil. Janssonius Blaeuw 1642

Blaeuw (1642) 「フォッサ・エウヘニアーナ」 In Wikimedia Commons

フォッサ・エウヘニアーナは南ネーデルランド執政イザベラ=クララ=エウヘニアの名にちなんだ運河です。スペイン版「洪水線」ともいえるもの(決壊戦術の意図はなさそうでしたが)で、最終目標はライン川・マース川・スヘルデ川をつなぐ60kmにも及ぶものです。共和国との国境防衛線としながら、ドイツ方面とアントウェルペンを直接水運で連絡し、衰退したアントウェルペンを再興しようという目的もありました。

計画は1618年頃から、建築家でもあったスペインのヴェネツィア方面軍司令官、ジョヴァンニ・ディ・メディチによって立てられました。その後スピノラ将軍の技術指導で1625年に具体化し、実際に建設が始められたのは1626年9月からです。当時のスペイン=ヘルデルラント州総督ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリクが第一鍬を切望し、8000人を動員したうえで、1628年までには計画の東半分、ライン川=マース川間の運河と24の砦が完成しています。

しかし、残り西半分のマース川=スヘルデ川間の建設は、スペイン政府の資金難によって1629年にいったん頓挫します。その後、1632年のフレデリク=ヘンドリクの「マース川沿いの遠征」の際、当のファン・デン=ベルフ伯がオランダ側に寝返ったこと、翌年の執政イザベラの死もあって、計画は完全に白紙になってしまいました。

アルベルティーネ=アグネスとオランイェ公ウィレム三世

Recapture of Naarden by William III in 1673 -Belegeringe der Stadt Naerden (Romeyn de Hooghe)

Romeyn de Hooghe (1673) 「ウィレム三世によるナールデン奪還 (1673)」 In Wikimedia Commons

時代はやや下りますが、旧洪水線の最も有名かつ効果的な使用例が、ルイ十四世のオランダ侵攻に対し、オランイェ公ウィレム三世がアムステルダムで用いた堤防決壊戦術です。

オランダ侵略戦争(1672-1678)において、英仏2国から宣戦布告されるという絶対的危機状況の中、スタットハウダー職から遠ざけられていたウィレム三世は、陸海軍総司令官として共和国防衛のために担ぎ出されます。フランス軍がユトレヒトを陥落させ、ルイ十四世自身がアムステルダムに乗り込んでこようとしている最終局面で、ウィレム三世は「洪水線」戦術を決行しフランス軍を撃退しました。

Beleg van Groningen - Siege of Groningen by Bernhard von Galen (1672)

Jacques Harrewyn (1684) フォン・ガーレンによるフロニンゲン攻囲戦 In Wikimedia Commons

ウィレムの判断を強力に後押ししたのが、フレデリク=ヘンドリクの次女でフリースラント州総督ナッサウ=ディーツ伯ウィレム=フレデリクの寡婦アルベルティーネ=アグネスです。この時、息子が未成年のため亡き夫を継いで摂政をしていました。アルベルティーネ=アグネス(ウィレム三世にとっては叔母でもあります)は、ウィレムに数ヶ月先んじた第二次ミュンスター戦争の折、自らフロニンゲンの洪水線でこの決壊戦術を使用させています。


このように、「旧洪水線」戦術は、結果的にオランイェ=ナッサウ家の指導者が代々決行することが多くなりました。もっとも、これはある種の焦土作戦のため、突発的な場合を除き、ある程度の地位や影響力のある人物でないとなかなか使えないものなのかもしれません。

リファレンス

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