モーケルヘイデの戦い(1574) Slag op de Mookerheide

Slag op de Mookerheide, 1574 Moockerheyde (titel op object), RP-P-OB-77.733

Frans Hogenberg (1574-1590) 「モーケルヘイデの戦い (1574)」 In Wikimedia Commons

モーケルヘイデの戦い de Mookerheide 1574/4/14
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_pf.gif プファルツ

flag_es.gif スペイン
勝 敗 ×
参加者 ナッサウ伯ルートヴィヒ
ナッサウ伯ハインリヒ
ライン宮中伯クリストフ
サンチョ・ダビラ
ベルナルディーノ・デ・メンドーサ

アルバ公は去った。だがそれだけだった。スペインの手は全く緩むことはなく、レイデンの攻囲は続けられた。オランイェ公は、ドイツで兵を集めている弟ルートヴィヒに救援を依頼する。それを知った新執政レケセンスは、レイデンに向かわせていた援軍をマース川へ差し向けた。

わたしは、兄弟たちが生きているのか死んでいるのか、まだわからないので、彼らの喪失を母上に告げて、慰めていいものかどうかわからない。

オランイェ公ウィレム一世/ ウェッジウッド『オラニエ公ウィレム』

経緯

低地地方でのアルバ公父子の強硬なやり方は、さすがにフェリペ二世の心証を損ねました。1573年、後任のレケセンスが着任し、父子はスペインに呼び戻されます。その直前、アルバ公はレイデンに包囲を敷いていましたが、レケセンスは政治的には若干の歩み寄りを見せるものの、レイデン攻囲についてはそのままに引き継ぎます。むしろアルバ公時代の執政府の失地回復を図ろうと、レイデンは何が何でも開城させる気でいたようです。

オランイェ公ウィレムは、年が明けると、ドイツに居る弟ルートヴィヒを急かし、レイデン救援を要請します。ルートヴィヒは弟ハインリヒ、ライン宮中伯クリストフらと約8,000の軍を集め、マース川を渡りました。一方レケセンスは、同じくレイデン用に要請していた6,000の増援部隊に、ルートヴィヒ軍討伐のため進路を変えるよう命じました。4月13日、マース川を渡ってモークに着いたルートヴィヒ軍は、スペイン軍も既にマース川を渡り、すぐ近くまで迫っていることに気づいていませんでした。

戦闘

Slag op de Mookerheide, 1574 Pugna Mochensis Ludovico Requesenio Gubernatore. 1574 (titel op object), RP-P-OB-79.549

Johann Wilhelm Baur (1630-1632) 「モーケルヘイデの戦い (1574)」 In Wikimedia Commons

翌日、モーク付近の荒地(モーケルヘイデ)で両軍は相まみえることになります。当初ルートヴィヒは、足場が悪いこと、自軍のほうが騎兵が多いことから、あまり深刻には考えておらず、兵力を温存するつもりでいました。しかし、スペイン軍の援軍が到着するに至り(スペイン軍は二手に分かれて追ってきていたものと思われます)、温存策などと悠長なことは言っていられなくなりました。防衛線が破られ、両軍の激突がおこります。

この最初の衝突で、ハインリヒとクリストフは命を落としました。ルートヴィヒは腕を撃たれながらもしばらくは指揮を執り続けていたようです。反乱軍は総崩れになりヘネプ方面に敗走を始めましたが、泥に足を取られて前進もままならず、ほとんど虐殺のようなかたちで、半分以上の兵が殺されました。ルートヴィヒもこの犠牲者の一人となってしまいました。ルートヴィヒ、ハインリヒ、そしてクリストフの3人の遺体は、他の兵たちの遺体とともに泥の中に沈んでしまい、結局見つかることはありませんでした。

余波

Mookerheide, view towards Cuijk, Mook, the Netherlands

モーケルヘイデ In Wikimedia Commons 荒涼とした感じがいい写真です! 右側遠くに見えるのがクエイクの街です。

この戦いを生き延びた兵士たちは、そのまま散り散りになってしまいました。本来レイデン救援に加わるはずだった8,000の兵がすべてふいになってしまったことになります。逆に、スペイン兵の損害は150名足らずでした。

遺体があがらないために確信が持てず、兄のウィレム一世はかなり長い間、弟たちの安否について思い悩んだようです。挙句にはその強いストレスによって、夏には重篤な病気にまでなってしまったほどです。 半年後、レイデンはその「英雄的な」防衛に成功します。しかしあくまでこれは結果論で、それと引き換えに多くのものが失われました。逆にいえば、ウィレムにとっては、その多くの犠牲を無駄にしないためにも、レイデンだけはどうしても防衛する必要があったのです。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年