対戦国 | オランダ | スペイン |
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勝 敗 | ○ | × |
参加者 | ルーメイ卿ウィレム二世ファン・デル=マルク ブロイス・ファン・トレスロング卿ウィレム レナールト=ヤンスゾーン・デ・フラーフ |
スペイン軍守備隊 |
それは偶然の出来事だった。やむなく立ち寄った街で期せずして成功したに過ぎない行為が、今後大きな意味合いを持っていくことになる。しかしそれに続く安易な報復行動は、所詮は「乞食ども」の蛮行との謗りを免れ得ない。デン=ブリールは勝利の幕開けとなったと同時に、反乱軍内の不穏分子の淘汰の始まりでもあった。
神よ彼らを許し給え。彼らは自分たちが何をしているか解らないのです。
フランシスコ会修道士ファン・メルフェル/ Motley, “Rise”
経緯
アルバ公がネーデルランド執政に着任し、「血の法廷」で多くの反乱分子を処刑する中、私掠船を仕立てて「海乞食」としてゲリラ戦に加わる下級貴族たちは年々増えていきました。中でもルーメイ卿は粗暴で有名な「海乞食」のリーダーの一人で、ドーバー海峡を股にかけ、船籍構わず多くの船舶から略奪をおこなっていました。イングランド女王エリザベスは、当初こそ「海乞食」たちに陰から支援をしてはいたものの、彼らがイングランド船に与える被害や対スペイン外交を鑑み、1572年3月、一切のオランダ私掠船のイングランド港への寄港を禁じました。
補給をイングランド港に頼っていた私掠船はこの措置に困り果てることになりました。この時ルーメイ卿は何人かの船長の船団とともに総数25隻の私掠船団を率いていましたが、食料の不足と船員たちの消耗が日に日に深刻になってきていました。成すすべもなく船団は風まかせに航行していたところ、たまたま小都市デン=ブリール沿岸にたどりつきました。
戦闘
ここで一人の渡し守コッペストックが、船長のひとりブロイス・ファン・トレスロング卿に、スペイン守備隊の大部分が今ユトレヒトに出払っていて留守である旨を告げます。ならばその留守中に充分に補給ができる、としたブロイス・ファン・トレスロング卿に、コッペストックはこのまま街ごと占領してしまったほうがいいのではとたたみかけます。さらにコッペストックはデン=ブリール市長クーケバッケルに対しても、海乞食は数千人も居るので抵抗せずに降伏するべきとも提案します。どこまで本当かはわかりませんが、これが事実なら結局、いちばんの功労者ってこの渡し守じゃないか?とも思われます。
もちろん市長と市参事会は海賊への街の明け渡しなど拒否します。そこでブロイス・ファン・トレスロング卿は街の攻囲を決断し、まずはルーメイ卿が北門へ向けて軍勢を率いていきました。市民と残りの守備兵は北門の守りに向かいますが、その間にブロイス・ファン・トレスロング卿が南門を急襲して門を破壊します。多少の小競り合いは起きましたが多勢に無勢であり、海乞食の一団はそのまま容易に街を占領することができました。
これは「オランイェ公の第一次侵攻」が失敗に終わって以降、反乱側の初めての白星となります。このニュースは急速に近隣に広まっていきました。
「ホルクムの十九殉教者」
デン=ブリール占領は、反乱軍にとっては希望の一歩となりましたが、同時に暗い一面も持っています。 一連のホラント州・ゼーラント州沿岸都市の占拠が落ち着いた頃、ルーメイ卿は各都市のカトリックの聖職者たちを逮捕しました。逮捕者は19名におよび、そのうち半数以上がホルクムの街の聖職者でした。彼らは10日ほどホルクムで監禁された後、デン=ブリールに移送されます。7月8日に到着した彼らは翌9日、ルーメイ卿の不当な裁判にかけられました。信仰について審問された彼らは、全員がカトリック信仰の堅持を表明したため、即日絞首刑にされてしまいます。
しかしこれは完全にルーメイ卿の独断専行でした。ルーメイ卿にはオランイェ公ウィレムから、占領地におけるカトリック信仰は妨害すべきではないと書かれた書簡も届いていましたが、それを無視した格好になります。ルーメイ卿はかつて親戚筋にあたるエフモント伯ラモラールの処刑に際し、「この復讐を果たすまでは髪も髭も切らない」と願掛けをしていたほど復讐心の強い人物でもありましたが、相次ぐ度を越した苛烈な行動から、オランイェ公をはじめとする反乱指導層からも徐々に見放されていくことになります。
ところで19名の殉教者たちが処刑された場所はデン=ブリールですが、「デン=ブリールの十九殉教者」ではなく「ホルクムの十九殉教者」と呼ばれているのも、デン=ブリール占領との関連性をやや希薄に感じさせる理由かもしれません。
なおこの19人は、100年後の1675年に福者として列福されています。
余波
このデン=ブリール占領に感化されたり呼応したりして、近郊の他の諸都市では、街の内外から同様の占有やスペイン守備兵の追放がおこなわれました。さらにドイツからは、満を持してオランイェ公の第二次侵攻も始まります。デン=ブリールは、1572年の一連の占領活動の糸口となっただけでなく、初めて反乱側がスペイン側に一石を投じた象徴としての意義をも持つことになりました。
また、ちょうどこの日がエイプリルフールだったこと、オランダ語の「めがね (brill)」と「デン=ブリール (Den Briel)」の発音が似ていることから、「4月1日にアルバ公は眼鏡を失くした」という駄洒落が流布するようになりました。「乞食ども」に四月馬鹿呼ばわりされたアルバ公の怒りも相当なものだったと推測されます。 なお現在も、デン=ブリールでは「4月1日祭」として毎年歴史再現イベントがおこなわれています。
参考: 主催者公式サイト(オランダ語) 1 April Vereniging
リファレンス
記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。ヘンティは小説。
- 佐藤弘幸『図説 オランダの歴史』、河出書房新社、2012年
- 桜田三津夫『物語 オランダの歴史』、中公新書、2017年
- 森田安一編『スイス・ベネルクス史(世界各国史)』、山川出版社、1998年
- ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
- Motley, “Rise”
- G.A.Henty, By Pike and Dyke, 1890