対戦国 | オランダ | スペイン |
---|---|---|
勝 敗 | ○ | × |
参加者 | ムルヘム卿ヤーコプ・カベリアウ ニコラース・ライヒアーフェル トレイン・レンブランス |
アルバ公ファドリケ・アルバレス・デ・トレド サン=アルドゥゴンド卿フィリップ・ド・ノワールカルメ |
息子ファドリケによるハールレムへの穏健な措置に怒りを隠せない父フェルナンドは、アルクマールの殲滅を厳命する。しかしアルクマール市民は、却ってハールレム以上の抗戦を誓った。そして「アルクマールから勝利は始まる」――このことばどおり、アルクマールはスペインの圧倒的な力に耐え抜いた初めての都市という名誉を得ることになる。
アルクマールが降伏したら、唯一人とて生きて残さぬ。ハールレムのような悪しき前例は全く無為だ。他の都市には「無慈悲」の意味を知らしめねばなるまい。
アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド/ Motley, “Rise
経緯
ナールデン、ハールレムに続き、ドン・ファドリケの制圧都市リストに入っていたのはアルクマールでした。北ホラントの中でも北部に位置し、海運に都合の良い都市として押さえておくべき要地だったためです。オランイェ公ウィレムは、「海乞食」の指導者の一人ソノイ麾下の2人の私掠船長、カベリアウとライヒアーフェルを800人の海乞食の軍とともにアルクマールに送りました。
戦闘
ドン・ファドリケが城門前に到着したのは8月21日。翌日から攻撃が始まりましたが、ハールレム同様、昔ながらの城壁に囲まれたアルクマールでも、基本的な戦いかたは同じです。突撃してくるスペイン兵には、城壁の上からタールや熱した油・熱湯などを浴びせかけ、または燃えさしやレンガ・石や金属など何でも投げ落とします。ここでも籠城側の女性や子供が活躍しました。「アルクマールのケナウ」と呼ばれた16歳のトレイン・レンブランスが有名です。(もっとも、この呼び名は本人には相当不本意だったと思われますが…)。海乞食のカベリアウも、110cmもある愛用の大型ツヴァイハンダーを操って奮戦したそうです。
9月18日、ワイン樽や船で橋をかけたスペイン軍の大規模な襲撃が失敗し、その後も無駄に日々が過ぎていく中、司令官のドン・ファドリケは攻囲を取りやめることとします。アルクマールの抵抗の激しさに、昨年のハールレムを思い起こし、このままだとまた攻囲をしながら何ヶ月も冬を越さねばならないと憂慮したのかもしれません。また、オランイェ公がアルクマール市に宛てた書簡を入手していたドン・ファドリケは、籠城軍と救援軍との挟み撃ちを危惧したのかもしれません。いずれにしても、冬の来る前の10月8日に街は解放されました。
余波
アルクマールがドン・ファドリケの遠征の最後の地となりましたが、アルバ公父子にとって、ネーデルランドでのキャリアの最後ともなりました。スペイン国王フェリペ二世は、ハールレムでもたつき、アルクマールで敗走したドン・ファドリケの失敗を許さず、また、執政としてあまりにやり方がまずいとしてその父であるアルバ公も同時に解任しました。12月、ネーデルランド執政の後任として派遣されてきたレケセンスと交代に、父子はスペインに呼び戻されます。アルクマールが彼らの失脚を決定づけたといっても過言ではないでしょう。
しかし後任のレケセンスによって反乱軍への制圧は続けられ、既に同年10月からはじまっていたレイデン攻囲戦は、翌年の10月まで1年にわたって続けられることとなります。レイデンでも、アルクマールの解放が市民たちの希望となったことは言うまでもありません。 アルクマール市民の犠牲者は40名足らず、スペイン軍の犠牲者は数百名を数えました。ところで海乞食のカベリアウは、もっとも勝利に貢献したとして、オランイェ公からアルクマールの市長の地位を与えられました。しかし、わずか4ヵ月後には死んでしまいます。攻囲戦中に罹った熱病が癒えなかったためかもしれないといわれています。
なお現在、アルクマールでも毎年解放の日にイベントが行われています。
公式サイト「アルクマール解放」(蘭語) 8 October Vereeniging “Alkmaar Ontzet”
2010年にアルクマールの旧市壁の地下から集団墓地が発掘されました。1573年の犠牲者のものらしいとのことです。 参考: Alkmaars massagraf uit 1573 ontdekt NOS.nl 2010/7/28
リファレンス
記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。ヘンティは小説。
- 佐藤弘幸『図説 オランダの歴史』、河出書房新社、2012年
- 桜田三津夫『物語 オランダの歴史』、中公新書、2017年
- 森田安一編『スイス・ベネルクス史(世界各国史)』、山川出版社、1998年
- ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
- Motley, “Rise”
- G.A.Henty, By Pike and Dyke, 1890