- シャティヨン卿 Seigneur de Châtillon, コリニー伯のち公 Comte/Duc de Coligny, ダンデロ侯 Marquis d’Andelot, フランス元帥 Maréchal de Châtillon
- 生年: 1584/7/26 モンペリエ(仏)
- 没年: 1646/1/4 シャティヨン(仏)
生涯
シャティヨン卿フランソワ(1557-1591: ルイーズ・ド・コリニーの弟)の次男で、「サン・バルテルミーの虐殺」で惨殺されてしまったガスパール・ド・コリニー提督の孫。アンリの年子の弟でオランイェ公フレデリク=ヘンドリクの母方の従弟にあたります。一族の影響でユグノーとして育ちました。1600-1601年、2人揃ってオランダに来ていた頃の記録は複数ありますが、どれも苗字でしか書かれていないため、兄弟のどちらがどこに居るか、丁寧に追っていかないとよくわかりません。
1598年、フレデリク=ヘンドリクがフランスにやってきた際にこの従弟と初めて会い、彼の滞在中、同世代ということもあり親しくしていたようです。この後オランダに軍事を学びに来ましたが、国王アンリ四世の反対があったといい、兄のアンリが参加したニーウポールト、オーステンデいずれにも参加したかどうかよくわかりません。1601年は、おそらくオーステンデではなくラインベルク攻囲戦のほうに参戦していたと思われます。兄アンリの戦死後、その代わりに家督を継ぐため1602年には一度フランスに戻ったとされます。が、1604年のスライス攻囲戦に参加していたり、1610年代にオランダで肖像画(軍装はフランスの軍装です)が描かれていることから、頻繁にオランダとの出入りはしていたようです。遅いものだと、フランスの三十年戦争介入直前の1633年、オランダのラインベルク攻囲戦、さらに1645年のフルスト攻囲戦に参加していた形跡があります。1637年頃から、息子のガスパール四世も父の軍に同行しています。
1622年にフランス元帥となり、ルイ十三世の軍で戦いました。フランスが三十年戦争に参戦した1635年以降、ガスパールは北フランスや南ネーデルランド方面に派遣され、フレデリク=ヘンドリク率いるオランダ軍と二方面作戦を展開しました。しかしスペイン軍の枢機卿王子フェルナンドや、神聖ローマ帝国軍のピッコロミーニ元帥など、当時でも一、二を争う将軍たちと直接対峙したうえに、彼の得意としたオランダ型攻囲戦を発揮する機会に恵まれず、華々しい勝利を重ねるというわけにはいきませんでした。1641年には、スペイン=神聖ローマ帝国連合軍に与したブイヨン公フレデリク=モーリス(テュレンヌの兄)とも戦っています。彼自身はユグノーのままでしたが、反リシュリュー派と対立するフランス王権側に一貫して身を置いたため、ルイ十三世およびリシュリュー枢機卿の最も信頼する元帥の一人だったようです。
同名の祖父ガスパールを「コリニー提督」と呼び、彼は「シャティヨン元帥」と呼ばれるのが一般的です。1643年にコリニー公となりました。祖父のガスパール二世(コリニー提督)世代についてはこちら。
長男のモーリスは1644年にギーズ公アンリ二世との決闘で死亡、次男ガスパール四世は1649年シャラントンの戦いで撃たれて戦死しています。アレクサンドル・デュマの『二十年後』ではシャラントンの戦いでガスパール四世(「シャティヨン殿」として登場)を殺したのはアラミスということになっています。
リファレンス
- “BWN“
コリニー伯アンリ Henri de Coligny
- シャティヨン卿 Seigneur de Châtillon、コリニー伯 Comte de Coligny
- 生年: 1583/8 モンペリエ (仏)
- 没年: 1601/9/10 オーステンデ(ベルギー)
生涯
シャティヨン卿フランソワ(1557-1591: ルイーズ・ド・コリニーの弟)の長男で、「サン・バルテルミーの虐殺」で惨殺されてしまったガスパール・ド・コリニー提督の孫。ガスパール三世の年子の兄でオランイェ公フレデリク=ヘンドリクの母方の従兄にあたります。一族の影響でユグノーとして育ちました。フランス国王アンリ四世の名づけ子。
1598年、フレデリク=ヘンドリクがフランスにやってきた際にこの従兄と初めて会い、彼の滞在中、同世代ということもあり親しくしていたようです。その縁もあり、オランダに軍事を学びに来たと思われ、1600年のニーウポールトの戦いには外国の客人の扱いで参加しています。(この時点ではまだ18歳に達していなかったため将校扱いではありません)。シモン・ステフィンの「帆かけ戦車」の実験の参加者としても名前があがっています。また、やはり同世代のナッサウ伯ハンス=エルンストとも親しくしていた様子がわかります。
コリニー提督の孫であること、名づけ子であることから、フランス国王アンリ四世には子どもの頃から目をかけられ、将来も約束されていました。アンリ四世は、危険であるとして、この兄弟をオランダに派遣するのに反対していたようです。
翌1601年6月、ラインベルク攻囲戦に初めて将校として参戦、大腿部に負傷します。が、すぐに回復。8月に、ナッサウ伯マウリッツにオーステンデ参戦を繰り返し直訴して、イングランド軍指揮下なら、という条件付で不承不承ながら承諾を得ました。しかし約1ヶ月後の9月10日に戦死。城壁の上に居たところ、大砲の流れ弾に当たり頭部を吹き飛ばされての即死でした。
リファレンス
- “BWN“