スウェーデンの軍制改革

History of Sweden - Part 1

ウイングハサーとハッカペル(とその乗ってる馬)がかわいすぎる「ポーランドボール(ネットミーム)」 In Wikimedia Commons

軍制改革史において、オランダの軍制改革の理論を改良し、その理論を実戦で証明した、といわれるのがスウェーデン国王グスタフ二世アドルフです。もっと正確には、オランダの軍制改革と、そのドイツ・ローカライズ版であるドイツ諸侯の軍制改革(下記リンク参照)のいいとこ取りともいえます。比較するとよりわかりやすいので、ここにメモしておきました。

(この記事ではあくまでかんたんな紹介にとどまっています。詳細はスウェーデン史専門家の著作など参考にしてください)。

グスタフ二世アドルフとオランダ・ドイツ軍制改革との関わり

Скопин-Шуйский встречает Делагарди близ Новгорода

Unknown (19th century?) In Wikimedia Commons 1609年ノヴゴロド近郊でのミハイル・スコピン=シュイスキーとデ・ラ=ガルディ(歴史画)

グスタフ二世アドルフは、未成年の王子時代から新しい軍隊の理論に触れていました。1607年、オランダの軍制改革のマニュアルでもある『武器教練』が出版され各国に瞬く間に広まりましたが、さっそく1608年にはスウェーデン貴族のひとりがこの本を王子に献呈しています。さらに同年、国王カール九世は王子のために、オランダ帰りのデ・ラ=ガルディに、王子への2ヶ月間の集中講義を命じました。(教練を献呈したのもデ・ラ=ガルディかもしれません)。1611年に即位したとき、スウェーデンはデンマーク・ポーランド・ロシアの3国と父王時代から続く戦争状態で、グスタフ二世アドルフは独自に改革について研究は続けていたものの、その導入はこれらの戦争に片がつく1617年以降となってしまいます。

ちょうどその時期、ドイツのジーゲンには士官学校が設立されました。グスタフ二世アドルフは、卒業生の多くをスウェーデン軍の将校として採用しています。また、自国の鉄鉱石や銅をオランダに輸出する反面、造船や大砲が専門のオランダ人技術者を積極的に呼び寄せました。1620年、グスタフ二世アドルフは結婚のためにドイツへ渡りますが、偽名を使ってドイツ各国の軍事情勢を視察して回りました。その際、プファルツ遠征のためハイデルベルクに来ていたナッサウ=ジーゲン伯ヤン七世とも直接出会っています。このとき、やはりプファルツ遠征に参加していたナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクとも会った可能性があります。

スウェーデンの軍制改革の特徴〔制度〕

1617年~1622年の約5年間でスウェーデンの改革はほぼかたちになります。グスタフ二世アドルフは国王なので、オランダの「陸海軍総司令官」たちと違い、国内の政治経済も掌握することができました。また、スウェーデンは自国で大量の金属類を産出できました。

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Unknown (1632) In Wikimedia Commons スウェーデン国王グスタフ二世アドルフとザクセン選帝侯ヨハン=ゲオルク

1. 「常備軍」の設立

スウェーデンでは国内からの徴兵を行うことを法令で定めました。といっても条件に合う男子全員を徴収するのではなく、10人につき1人を任意で選ばせるという方法です。年齢別に異なる武器を扱わせましたが、これはナッサウ伯領で取り入れられた方法でもあります。当初はそれらドイツ諸領のように、防衛を主体とする常備軍が想定されていました。しかし、三十年戦争の激化につれ、徐々に攻撃に重きを置いた編成へと変化していきます。最終的には、すべての連隊が野戦仕様とされました。それでもドイツ遠征時には、兵の増強や補充のために、旧来の傭兵の力も借りることになります。

2. 軍法の制定

軍法は1621年7月に制定。オランダの教練をベースとした訓練が、兵士・将校ともに課されました。

3. 武器規格の統一

スウェーデンでもオランダ同様に武器の規格の統一が進められています。さらにマスケット銃、パイクのほか、武器だけではなく防具に関しても全体的に軽量化が図られ、とくに大砲に関しては、研究開発の結果より軽い野戦砲の大量生産が可能になりました。オランダの野戦では大砲は10門以下しか配備されませんでしたが、スウェーデン軍は3桁もの野戦砲をもってドイツ遠征するまでになりました。もっともスウェーデンでの砲の用途は、国内に張り巡らされた運河網を水運として用いることができ攻囲戦が9割以上を占めたオランダと比較して、もともと遠征と野戦とを考えたスタイルですから、ある意味当然の進歩といえる部分です。

スウェーデンの軍制改革の特徴〔戦法〕

1. オランダ式大隊の改良

オランダがあくまで防御型であったのに対して、スウェーデンの大隊の編成はより攻撃型の陣形に改良されました。オランダ型の陣形をさらに薄くしたうえに、縦列にも配置をおこない、歩兵・騎兵・砲兵が互いに援護しあえるようにしたものです(三兵戦術)。三兵戦術はオランダではほぼ理論のみにとどまりましたが、スウェーデンでは実際に野戦で使用され、その効果が証明されました。ブライテンフェルトの戦い、レヒ川の戦い、リュッツェンの戦い(1631~1632年)が有名です。下記の画像では、グスタフ二世アドルフ軍(上)の薄い陣形と、ヴァレンシュタイン軍(下)のテルシオとの違いがよくわかります。

Glaubwürdiger Bericht und Erzehlung Was etwa von der vorm Jahr den siebenden Septemb. Ausschnitt 2

Matthäus Merian the Elder (After 1632) 「リュッツェンの戦い (1632)」 In Wikimedia Commons

2. 反転行進射撃(カウンターマーチ)

Die Enfilade

カウンターマーチのモデル (2007) In Wikimedia Commons

こちらもオランダ型を攻撃重視に改良しています。オランダでは1列ずつ×10列の連続射撃を考え出しましたが、スウェーデンでは3列ずつ×6列の連続射撃としました。いわゆる「三段撃ち」というやつです。膝立ち・中腰・立ち撃ちの3列が同時に銃撃を行うため、一度の発射での火力が数倍になります。しかも、発射後の兵士は、反転して後退するのではなくその場に留まり、第二列がさらに前進して連続射撃を続けます。その意味では既に「カウンター」の語句は正しくないかもしれません。そのため「反転」ではなく「漸進」行進射撃という用語を使う場合もあります。

3. 抜刀突撃(サーベルチャージ)

Asselijn - Gustavus Adolphus in der Schlacht von Lützen

Jan Asselijn (1632) 「リュッツェンの戦い (1632)」 In Wikimedia Commons

騎兵に関しては、カラコールを完全に廃止し、抜刀突撃(サーベル・チャージ:これはフランスのアンリ四世が考えたといわれています)を基本とさせるようにしました。上掲の17世紀当時の絵画でも、国王自らサーベルチャージしています。しかし、小型の馬に乗り装備を全身鎧から胸甲やコートに切り替えたスウェーデン軍では、敵の重装騎兵に突撃するには相当に危険が伴うのも事実です。

Hakkapeliitta-1940

ハッカペルを描いたフィンランドの切手 (1940) In Wikimedia Commons

また、獰猛さで知られるフィンランド騎兵(ハッカペル)もこの時期に活用されています。上に挙げたブライテンフェルトの戦い、レヒ川の戦い、リュッツェンの戦いにも投入されたほか、国王の護衛としても重用されました。

リファレンス

  • クリステル・ヨルゲンセン他『戦闘技術の歴史<3>近世編』、創元社、2010年
  • ジェフリ・パーカー 『長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃 1500-1800年』、同文館出版、1995年
  • 『戦略戦術兵器事典<3>ヨーロッパ近代編』、 学習研究社、1995年
  • マイケル・ハワード『ヨーロッパ史における戦争』、中公文庫、2010年
  • ヴェルナー・ゾンバルト『戦争と資本主義』、講談社学術文庫、2010年
  • リチャード・ブレジンスキー『グスタヴ・アドルフの歩兵/グスタヴ・アドルフの騎兵』、新紀元社、2001年