八十年戦争期のオランダ軍の戦闘は、攻城戦がメインです。数ヶ月の長期に及ぶこともある攻城戦の最中、軍はどのようにして過ごしていたのでしょう。冒頭に挙げた絵画は、オーステンデ攻囲戦中のキャンプの様子。両側に物売りのテントが並び、女性、子供、商人がうろうろしていて、一見すると戦場というより市場の絵のようにも見えます。当時描かれた絵画をメインに、その生活を垣間見てみます。
キャンプの区割
まずはちょうどいい資料(1597年フロール攻囲戦時のキャンプ区割[部分])がウィキペディアのオランダ語版に載っていたので、簡単な説明です。だいたい1590-1630年代くらいの話です。
キャンプを張る場所を決めるのは補給将校です。このフロール攻囲戦(1597)の時の補給隊長はシモン・ステフィン。(本職は数学者なのに、将校としてこんなことまでやらされてました)。
まずは司令官の場所を決め、そこに旗を立てます。その後、司令官のテントの周りに将校のテントを配置します。この資料(50年後くらいに書かれたものですが)ではけっこう事細かに、全体の幅やテントごとの幅まで決められています。また、中央右上に、「ウィレム=ローデウェイク」と書かれているのがみえます。ナッサウ家の将校はここに寝泊りするんでしょう。中央左下は弾薬置き場。将校会議は、中央の司令官のテント内で行うことが多いです。また、画像では、旗のかたちで歩兵・騎兵の区別がされ、旗の色で国籍が分かれているようです。旗には、将軍の名前または国籍が書いてあります。さらにこの周りに補給部隊のテント等が張られます。
この絵は集合の様子を描いた絵でしょうか? 真ん中にあるのがおそらく司令官テントで、既に集まって整列している騎兵の一団も見えます。実際のキャンプ地はこのように樹木や起伏があったりして、上に挙げた区割図のように整然とした感じではありませんね。
兵站
16世紀~17世紀の軍隊は、兵士とだいたい同数かまたは兵士より多いくらいの補給部隊を引き連れていました。1600年のニーウポールトの戦いのときには、補給部隊の行軍の長さだけで16kmにも及んだとか。
軍隊の正規の輜重部隊は、おもに武器や食料を扱います。食料は、
- 兵士1人につき パン1/2ポンド
- 兵士1人につき チーズ1/4~1/2ポンド
- 兵士100人につき ビール樽1つ
が1日に支給されます。これは軍から必ずもらえる基本の主食で、卵や肉類などの副菜も出たと思われます。パンは近くの街で焼かれたり、街が遠いときは、持ち運びのできる「携帯窯」で焼かれます。当然こればかりでは足りない人もいるわけで、給料の中から自分で買うこともできます。
軍隊の正規の輜重部隊のほか、従軍商人(一般的に「酒保商人」と呼ばれます)も多数同行していました。
酒保商人は、本当にいろいろなものを扱います。食べ物から衣服から売春まで、何でもあります。
オランダ軍の場合、商人たちは、まず将校に店を出す旨の許可をとります。許可を取ったら、軍のテントの周りに店のテントを張って商売をはじめてOK。その後も、不当に高く売っていないか常に監視下に置かれます。また、酒を売る場合は、別に酒税を払う必要があります。1/3は将校の正規給与に上乗せされる分となり(このようにあらかじめ仕切を決めることで、将校個人によるピンハネを防ぐと思われます)、残り2/3は疾病兵のための費用に使われます。軍の監視下にあるうえ、オランダ軍の兵士はタマゴ1つといえど窃盗をしたら軍法で極刑になるため、盗難もなく非常に安全です。1593年のヘールトライデンベルフの攻囲戦時のキャンプは、そんじょそこらの街よりも安い物資が大量に集まる一大商業地として有名になりました。
それでも、この時代の兵站はまだまだ発展途上で、せいぜい3-4万人程度の兵士をまかなうので精一杯といわれています。オランダのような小規模な軍隊だからこそそれなりに機能したシステムかと思われます。
これは従軍部隊の行列を描いた絵画。向こう側の道を馬車で行くのは、白馬に馬車を牽かせているのを見ても、正規の部隊と思われます。将校たちの調度品や武器弾薬の類を運んでいるのかもしれません。手前は兵士たちの妻子や行商人など、徒歩で従軍する一団。まさに老人から乳飲み子まで、調理器具から鶏などの食料まで家財道具一切を背負ってぞろぞろとついていきます。この絵だけ見ても、兵士よりも数が多くなっても全く不思議はありません。
キャンプ生活
軍隊といっても、実は実際に「戦闘」をおこなっている時間は、それ以外の時間(行軍の時間・待機時間など)と比べるとものすごく少なく、せいぜい数パーセントです。兵士は圧倒的に多いこの「空き時間」には、何をしていたのでしょう。
オランダ軍も、まだ軍制改革もごく浅い初期のころは、あまり旧来の傭兵時代と変わらず、たとえば将校たちは一晩中飲み騒いだあと、昼近くなって起きだしてくるなんてことも多かったようです。昼間も、博打や喧嘩など、まったく非生産的な生活をしていました。
が、オランダ軍では、昼間の空き時間に一般の兵士にも特別手当を支払って、塹壕掘りをさせるようになりました。(それまでは塹壕堀りは専門の部隊か、近隣の農民などを雇って行われていました)。それでも空いている兵士は、戦場のキャンプ内で訓練が行われました。もちろん、個人単位ではなく部隊ごとの訓練なので、指揮命令をおこなう将校も一緒です。これによって、昼間に「ヒマ」な軍人は居なくなることになります。
夜は従来どおり、飲む打つ買うです! 窃盗同様、略奪・喧嘩・強姦には厳格な罰則が適用されるため、お行儀よくおカネを払って楽しんでいたようです。
駐屯生活ギャラリー
こちらは街に駐屯している軍隊の、将校の詰所と思われます。おそらく上級将校用に提供された建物の中で、壁には地図が掛けてあり、テーブルでバックギャモンをしている図です。
街や村に駐屯する場合、一般の兵士たちにはこのように納屋や家畜小屋が割り当てられます。ひとつの小屋に馬や犬も一緒です。左手前や奥のほうで将校と一緒にいるのは、ツケを取り立てに来た売春宿の女将でしょうか。
まさに酒・女・歌。小太鼓は博打(サイコロやカード)の台にも使えて便利です! テーブルがなければ太鼓や床でギャンブルをします。17世紀中葉にもなると、アフリカ系従者の姿も描かれています。奥にはベッド?に転がっている姿も。
これは進軍途中での宿での一休みの様子。洗顔や洗濯をしたり、馬に水をやっています。
リファレンス
- クラース・ファン・ベルケル(塚原東吾 訳)『オランダ科学史』朝倉書店、2000年
- Van Der Hoven, M (ed.), Exercise of Arms, Brill, 1997
- ウィルソン『オランダ共和国(世界大学選書)』、平凡社、1971年
- ヨハン・ホイジンガ『レンブラントの世紀―17世紀ネーデルラント文化の概観(歴史学叢書)』、創文社、1968年
- クリステル・ヨルゲンセン他『戦闘技術の歴史<3>近世編』、創元社、2010年
- ジェフリ・パーカー 『長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃 1500-1800年』、同文館出版、1995年
- 『戦略戦術兵器事典<3>ヨーロッパ近代編』、 学習研究社、1995年