似てる・似てないで肖像を見るのもひとつの楽しみです。もちろん、対象が血縁だったり、画家が同じだったり、マスターからのコピーで作成された肖像だったりすると似ていて当たり前な部分もあるのですが。その点、性別が違ったり、二世代離れてたりするほうがより面白いです。
父と娘
ウィレム沈黙公とその長女マリア。いくら同じ画家が描いた…にしても似てます。ここまで父親に似ているのも若干気の毒な気も…。
というのも、マリアはホーエンローエ=ノイエンシュタイン伯フィリップスに11歳の頃に一目惚れし、その妻に納まるまで実に30年近く意思を貫き通してきました。ですが、ホーエンローエ伯側からすれば、同僚(本来上司だが本人はそう思っていない)のウィレムに年々似てくるその娘を見ているのも微妙な気分だったのでは…と推測されます。
祖父と孫・その1
クラーナハ(子)の筆によるザクセン選帝侯モーリッツとミーレフェルト工房製作のナッサウ伯マウリッツ。一人娘アンナを通じての祖父と孫です。祖父といってもモーリッツは三十代で戦死しているので、マウリッツのほうも三十代の肖像を選びました。
- モーリッツ
- アンナ
- マウリッツ
- エミリア
- アンナ
とくにこのマウリッツの肖像(ヴェルサイユ宮殿蔵)は、みんな似通って優しげなタッチのミーレフェルト工房の肖像の中でも若干異色で、ほかのものより峻厳な感じが出ています。早い時期に描かれたものだからでしょうか。どちらかといえば目元などの雰囲気が近く、1590年代に相対したスペインの老将たちがマウリッツに興味を持ったのも、その風貌を伝え聞いて、カール五世時代の記憶を思い起こしたからかもしれません。
いずれにせよ、父の沈黙公より祖父のモーリッツとのほうが似ているのは一目瞭然です。生え際あたりとかも…ね…。
マウリッツの全妹エミリアは父親と異母姉マリア似ですね。
ディレンブルク系比較
ウィレム一世兄弟の世代と、その弟ヤン六世の息子たちの世代(伯父または叔父・甥、および父子関係)もそれぞれなんだか似ています。しかも、顔が似ている者同士で性格も似ているような…?
筆まめガチガチ改革派系
ちょっと垂れ目で下ぶくれな感じがよく似ているヤン六世とその長男ウィレム=ローデウェイク・次男ヤン七世。いずれも敬虔なカルヴァン派信仰に基づいたストイックな勉強家で、教育者・為政者としても有能です。また、常に互いに情報交換をし合っていたり、近隣プロテスタント諸侯とのパイプも強く、外交にも長けています。
- ヤン六世
- 長男: ウィレム=ローデウェイク
- 次男: ヤン七世
猪突猛進騎兵系
ウィレム一世の三弟ルートヴィヒと、ヤン六世の四男フィリップスと六男ローデウェイク=ヒュンテルです。背も高く貴族然としていて司令官栄えする風貌ですが、勉強が不得手で物事を深く考えない楽観主義者、且つ、血気に逸りやすいので、実際の司令官としてはあまり命を預けたくないタイプ。ちょっと血は遠くなりますが、プファルツ選帝侯フリードリヒ五世の三男ループレヒト(プリンス・ルパート)・四男モーリッツ(プリンス・モーリス)の若い頃もやや似た性質です。
- 長男: ウィレム一世
- 四女: エリーザベト
- 長男: フリードリヒ五世
- 三男: プリンス・ルパート
- 四男: プリンス・モーリス
- 長男: フリードリヒ五世
- 四女: エリーザベト
- 次男: ヤン六世
- 四男: フィリップス
- 六男: ローデウェイク=ヒュンテル
- 三男: ルードヴィヒ
「マウリッツの弟」 従兄弟同士・その1
ナッサウ伯ヤン六世やその息子のヤン七世は非常に子沢山ですが、息子たちの肖像画をずらっと並べてみると、似た顔が多いです。とくにヤン七世の長男・次男・三男のハンス=エルンスト、ヤン八世、アドルフはよく似ています。中でもハンス=エルンストとヤン八世は、ちょうど同じ1603年(十代後半)、それぞれ全く別の場所で、なぜか従弟(正確には父の従弟)のフレデリク=ヘンドリクと間違えられています。
- 長男: ウィレム一世
- 次男: マウリッツ
- 三男: フレデリク=ヘンドリク(1584)
- 次男: ヤン六世
- 次男: ヤン七世
- 長男: ハンス=エルンスト(1582)
- 次男: ヤン八世(1583)
- 三男: アドルフ(1586)
- 五男: エルンスト=カシミール
- 次男: ヤン七世
ハンス=エルンストはフレデリク=ヘンドリクといっしょに、新英国王ジェームズ一世の即位式に参列していました。ふたり並んで国王に挨拶するため待っていたところ、ジェームズがハンスのほうを「マウリッツの弟」と間違えて近づいてきました。国王の間違いを失礼のないように正すため、ハンスは数歩引き下がり、その間にフレデリク=ヘンドリクが軽く進み出て国王の手への接吻の許可を求めました。実はこれは事前に懸念されていたのか、ハンスは前もって、こういった場合を想定したマナーを叔父のエルンスト=カシミールから叩き込まれていました。
一方ヤン八世はイタリア外遊中に、やはり「マウリッツの弟」と間違えられて捕らえられ、その誤解が解けるまで軟禁されてしまいました。同じ間違えられるでも、その場所がオランダに好意的な国かどうかでその扱いには雲泥の差があります。
これを総合すると、どうやらドイツ系ナッサウ家のイメージはある程度固まって認識されていたものと思われます。この時期、「ニーウポールトの戦い」のマウリッツの絵姿はヨーロッパ中にばらまかれていますし、ヤン七世はヨーロッパ中を旅して回っているので、この2人がそれなりに似ていれば、「ナッサウ顔」の共通のイメージ形成に寄与していても不思議はありません。ハンスやヤン八世はフレデリク=ヘンドリクと同じ年回りのうえ、フレデリク=ヘンドリク以上にマウリッツに似ていたのかもしれません。
もっとも、肖像画も画家や時期によってだいぶブレがあるので、絶対的な基準ではないのは言うまでもありません。フレデリク=ヘンドリクは母語がフランス語で立ち居振る舞いもフランス式だったため、ほかの典型的ドイツ貴族の親族から単に浮いていただけの可能性も高いです。どちらにしても、マウリッツがニーウポールトの戦いで一躍有名になったこの時期、未成年のフレデリク=ヘンドリクは、その個人としてではなく、未だ「マウリッツの弟」としての価値でのみ語られる存在だったのでしょう。
なお、若年期のハンス=エルンスト、ヤン八世、アドルフの3兄弟は年齢も近く、見ての通りのイケメン揃いなので、3人が3人とも服飾などの見た目に相当に金をかけて(借金してまで)着飾っていたようです。質素倹約を旨とする厳格な改革派の父のヤン七世は、そのことに対し口酸っぱくお小言の手紙を送っていたとか。
従兄弟同士・その2
先ほどは父方でしたが、今度はフレデリク=ヘンドリクと母方の従兄弟。コリニー=シャティヨン伯ガスパール三世、同名の二世(祖父)は「聖バルテルミーの夜」に惨殺されたユグノーの領袖「コリニー提督」として有名です。彼らは、このガスパール二世の子である姉弟のそれぞれの子のため従兄弟同士となります。年齢も同じで、成人から40年以上一緒に戦い続けています。
- ガスパール二世(コリニー提督)
- 姉: ルイーズ(1555)
- フレデリク=ヘンドリク(1584)
- 弟:フランソワ(1557)
- 長男: アンリ(1583)
- 次男: ガスパール三世(シャティヨン元帥)(1584)
- 姉: ルイーズ(1555)
若い頃は全く似ていないのですが、中年になりよく似てきました。若干ガスパールのほうが貫禄があるでしょうか。この版画は描かれた時期が数年ずれていて、フレデリク=ヘンドリクは48-49歳、ガスパールは45歳時のものとのことです。いずれもフランスが三十年戦争に介入する前ですから、ガスパールも頻繁にオランダの攻囲戦に参戦していた時期です。
祖父と孫・その2
オランイェ公フレデリク=ヘンドリクとその外孫アンハルト=デッサウ侯レオポルト一世。三女ヘンリエッテ=カタリナの息子にあたります。これも隔世でよく似ています(とくにこの肖像は肩帯もオレンジ色なので)。レオポルトの肖像を初めて見たとき、あまりにも似ていて笑っちゃったほどです。
- フレデリク=ヘンドリク
- 長女: ルイーズ=ヘンリエッテ
- フリードリヒ一世(初代プロイセン王)
- 三女: ヘンリエッテ=カタリナ
- レオポルト一世(アンハルト=デッサウ侯)
- 長女: ルイーズ=ヘンリエッテ
レオポルト一世は、従兄筋にあたる(フレデリク=ヘンドリクの長女ルイーズ=ヘンリエッテの嫁ぎ先)プロイセン王家に仕え、元帥をも務めてプロイセン軍の強化に生涯をかけた人物です。フレデリク=ヘンドリクの三十年戦争の時代には、領地を蹂躙されるがままだった軍事小国のブランデンブルクですが、近代に軍事強国と呼ばれるまでになったのは、大選帝侯フリードリヒ一世ヴィルヘルムの改革を経て、レオポルト一世の功績が大きいといわれています。
そしてこのレオポルト、母ヘンリエッテ=カタリナの死後その遺品から祖父フレデリク=ヘンドリクの手記を発見し、後に出版しました。見た目もさることながら、祖父の思想にもかなり触れていたと思われます。
リファレンス
- Prinsterer,”Archives”
- Motley, “United Netherlands”