「八十年戦争期の戦闘(海戦)」から記事を分割しました。
この記事の内容は、1項めを除いてサイトの趣旨からはずれるウェストファリア条約後の時代のため、有名な提督とその旗艦のみ紹介します。名提督とその旗艦名が紐づいている図式(「俺の艦」って感じ)は陸軍にはない男のロマン(?)ぽくてちょっと好きです。この時代の各提督の旗艦や、提督自身の名前を持つ船は、現在もオランダ海軍の旗艦名として残っているものも多いです。
エミリア
これだけ八十年戦争期の艦。もとはヴィッテ・デ・ヴィット提督の旗艦として建設されましたが、トロンプ提督が「ダウンズ沖の海戦」で大勝したことで一躍有名になりました。イングランド王妃ヘンリエッタ=マリアの亡命時に、イングランドからオランダまで彼女を乗せてきたのもこの『エミリア』です。しかしなぜかその後フランスに売却され、地中海でスペイン船に拿捕された後は行方不明となりました。
ブレーデローデ
陸軍元帥ブレーデローデ卿ヨハン=ヴォルフェルトの名を取った船。船尾にはオランイェ公の紋章が掲げられています。第一次英蘭戦争時、マールテン・トロンプ提督がテル・ヘイデの海戦(1653)で乗っていた旗艦で、トロンプはこの時に戦死。北方戦争時には、トロンプのライバル、ウィッテ・デ=ウィット提督がエーレスンドの海戦(1658)で乗っていましたが、この戦いで『ブレーデローデ』は沈没、デ=ウィットも戦死しました。あまり縁起の良い船ではなかったのでしょうか…。
エーンドラハト
もとは「プリンス・ウィレム」の名で建造されていたものの、ウィレム二世の急死によって第一次無州総督時代に入り、ホラント州法律顧問ヤン・デ・ウィットが、共和国の標語『Concordia』(=eendracht 団結)に船名を変更したという曰く付きの船。船尾にはオランダの寓意である、柵に囲われたライオンの像。ファン・ワセナール=オプダム提督の旗艦で、北方戦争時、上記のエーレスンドの海戦(1658)に投入されましたが敗走を余儀なくされます。その後第二次英蘭戦争のローストフトの海戦(1665)では、ジェームズ二世やカンバーランド公ルパート等を苦しめたものの、火薬庫に引火して爆発し、オプダム提督を含むほとんどが戦死。生存者はわずか5人しかいなかったとのことです。この船も短命でした。陸軍トップの名を冠するのが良くないんでしょうかね。
デ・ゼーフェン=プロフィンシーエン
デ・ロイテル提督とともに、第二次英蘭戦争・第三次英蘭戦争の多くの戦いを共にした旗艦。「七州」の意味です。船尾は共和国の紋章を中央に、七州それぞれの紋章が囲んでいるモチーフです。オランダ共和国の別名でもあるポピュラーな名称なので、歴代オランダ海軍にも同名の戦艦が複数存在しています。
このストルクの絵画は第二次英蘭戦争期の「四日間海戦」。17世紀最大規模かつ最長の海戦です。日ごろ攻囲戦ばかり見ているので、4日で最長というのは不思議な気もします。左がオランダ船、右がイングランド船ですが、中央の『デ・ゼーフェン=プロフィンシーエン』のほかに、コルネリス・トロンプ提督の『ホランディア』、英ジョージ・モンク提督の『ロイヤル・チャールズ』、また、1610年から50年以上の戦歴を持つ英『プリンス・ロイヤル』も描かれています。『デ・ゼーフェン=プロフィンシーエン』は30年に渡る激しい戦闘のため損傷が激しくなり、1694年に解体されました。
ハウデン・レーウ
このサイト名として採用した『金獅子』を意味する船。コルネリス・トロンプの旗艦で、第三次英蘭戦争に主に投入されています。船尾のモチーフは名前そのものの金獅子とナッサウブルー。当時のオランダ船では最大級。テセル島の海戦(1673)では、デ・ロイテル提督の『デ・ゼーフェン=プロフィンシーエン』、コルネリス・エベルトセン(甥)の『ジーリクゼー』などと共に参戦しており、ルパート公率いる英仏連合軍を破っています。上記の絵は、スプラッグ提督の『プリンス』との激突が描かれます。超オランイェ派のコルネリス・トロンプらしく、オランイェ公旗(三本ではなく六本ストライプになっているもの)が目立ちます。木材腐朽のため1686年に解体されています。
ホランディア
ホラント州の名を冠した艦。これは「誰の」というより、かなりヘビーにあちこちで、様々な敵相手に、複数の提督に乗られた戦艦です。最初はデ・ロイテル提督が1年だけ乗り、その後コルネリス・トロンプ提督が「四日間海戦」で乗りました。この「四日間海戦」を描いた絵画では、いちばん左で散々なダメージを受けているのが『ホランディア』です。さらにオランダ侵略戦争時に再度コルネリス・トロンプ提督が乗り、その後コルネリス・エベルトセン(子)が、地中海方面用の旗艦とします。最後は北欧のイェーテボリからの帰りに北ホラントで、戦闘ではなく嵐によって沈没しました。
ワルヘレン
エベルトセン提督一族が旗艦とした船。最初に投入された1666年6月の「四日間海戦」では、第一日めに、この『ワルヘレン』に乗っていたコルネリス・エベルトセン(父)が戦死し、この戦いの間息子のコルネリス・エベルトセン(子)が代わりに指揮を執ります。直後の8月、ヤン・エベルトセン(コルネリス父の兄)が「二日間海戦(聖ジェームズの日の海戦)」で戦死、やはりコルネリス・エベルトセン(子)が引き継ぎました。
第三次英蘭戦争の際にはバンケルト提督の旗艦となりますが、名誉革命でオランイェ公ウィレム三世がイングランドへ渡る際にその乗艦として用いられ、その後、オランイェ派だったエベルトセンが再度旗艦とすることになりました。が、イングランドからの帰路、入港時に埠頭に衝突してあえなく沈没してしまったそうです。
リファレンス
- クリステル・ヨルゲンセン他『戦闘技術の歴史<3>近世編』、創元社、2010年
- ジェフリ・パーカー 『長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃 1500-1800年』、同文館出版、1995年
- 『戦略戦術兵器事典<3>ヨーロッパ近代編』、 学習研究社、1995年
- マイケル・ハワード『ヨーロッパ史における戦争』、中公文庫、2010年
- ヴェルナー・ゾンバルト『戦争と資本主義』、講談社学術文庫、2010年
- Bouko De Groot, Dutch Navies of the 80 Years’ War 1568-1648, Osprey Pub Co, 2018