オランダ共和国陸軍元帥リスト(暫定版)

School of Michiel Jansz. van Mierevelt 001

School of van Mierevelt (1607) In Wikimedia Commons オランダ共和国軍初代陸海軍総司令官はナッサウ伯マウリッツです。

八十年戦争期のオランダ軍とフランドル方面軍」にも詳述していますが、オランダ共和国軍の将校のランクは、過渡期ということもありかなり曖昧です。少なくとも17世紀に関しては、トップ・コマンドの陸海軍総司令官 Generaal-Admiraal はマウリッツ以降のオランイェ=ナッサウ家当主と完全に一対一対応ですが、その直下に置かれる「元帥 veldmaarschalk」といえる人物のリストは見当たらなかったので、とりあえずウィレム三世時代までを一覧にしてみました。

第一次無州総督時代には陸軍が縮小され、ナッサウ家の力も削がれたため、「おそらく」元帥は不在です。「誰が元帥か」が探せていない状態で、「不在である」という明確なソースに基づいた記述ではないので、この記事には「暫定版」の但し書きをしています。

初代陸海軍総司令官ナッサウ伯マウリッツの時代から、相変わらず陸軍の高級将校にはナッサウ家の血縁・姻戚が多いです。このリスト内では、自主退役して悠々自適の隠居生活を選んだヨハン=マウリッツ以外は、全員死ぬまで元帥やってます(大変なお仕事です…)。画像は、できるだけMarshall的なタイトルが絵の中に描きこまれているものか、元帥杖を持っているものを選びました。

グレーの文字は、厳密には「共和国軍陸軍元帥」ではありません。マールテン・ファン・ロスムは、「veldmaarschalk」のタイトルを持つ初めての人物ですが、共和国軍設立の二世代前、カール五世によってヘルレ公国がハプスブルク家に併合される前の元帥です。その性質はイタリア傭兵とよく似た雇われ元帥だったようです。ヨースト・デ・スーテはオランイェ公ウィレム一世の暗殺に伴う後任なので、マウリッツが陸海軍総司令になるまでの「つなぎ」(または称号だけはその死まで保持したか)の位置づけと思われます。

ウィレム三世時代も変則的です。イングランド国王即位後から晩年にかけては、それぞれ任期も短く不在・並立時期もあるようです。南の守りとして重要なマーストリヒトの知事を兼ねている場合もあります。

海軍提督2人が名を連ねる「Luitenant-admiraal-generaal」も、陸軍元帥不在時のナンバー2のような意味合いです。無理に訳せば「海陸軍副総司令官」という、日本語としてはヘンテコなタイトルになりそうです。ウィレム三世が急遽州総督および陸海軍総司令官に就任した1672年当時、無州総督時代の陸軍弱体化が祟って陸軍に適齢の人物が居なかったため、一時的に名のある提督を引っ張ってきただけと思われます。そのためこのタイトルは、この2人のみで終わっています。

期間 名前 画像 ナッサウ家との関係 備考
1524
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1543
マールテン・ファン・ロスム Maarten van rossum 1600 無し(「反乱」以前) ヘルレ公国の元帥(ハプスブルク家およびオランダ共和国以前)。
ヘルレ公カレル・ファン・エグモント麾下に限定。
1584?
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1589?
ヴィレ卿ヨースト・デ・スーテ Joost de Soete 無し オランイェ公ウィレム一世の死後、その後任として一時的にユトレヒト州総督および「元帥」となるが、権限が限定されていた可能性もある。
この称号をいつまで保持していたかも不明。
1607
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1632
ナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミール ErnstCasimirvonNassau-Dietz01

ナッサウ=ディーツ伯

オランイェ公マウリッツの従弟

「共和国軍元帥」としてはいちおう初代といえる。休戦交渉中の1607年に急遽任命された理由は、ブラウンシュヴァイク公女との逆玉婚に際しての権威付けか?
1633
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1642
ナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレム Willem Graaf van Nassau. Engraving by Jacobus Houbraken 570006

ナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯

ナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミールの甥

歩兵連隊長あがり。十二年休戦条約締結時点で未成年だったため、基本的に活躍したのは1621年の条約失効後となる。
1642
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1655
ブレーデローデ卿ヨハン=ヴォルフェルト Arolsen Klebeband 01 359 オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの義理の弟、ナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレム/ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツの義理の兄弟 砲兵連隊長あがり。
1656
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1667
不在? Pieter Nason Wilhelm Friedrich (Nassau-Dietz) Governor of Frisia 1664 ナッサウ=ディーツ伯ウィレム=フレデリク(エルンスト=カシミールの次男)が何度か元帥の地位を要求しているが、いずれも連邦議会により却下。
1668
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1675
ナッサウ=ジーゲン侯ヨハン=マウリッツ Escola holandesa - Retrato de João Maurício de Nassau-Siegen

ナッサウ=ジーゲン伯(のち侯)

ナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレムの異母弟

1675年退役。
聖ヨハネ騎士団ブランデンブルク・バレイ長。
1673
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1676
ミヒール・デ・ロイテル Michiel de Ruyter Atlas Blaeu van der Hem 無し(提督系) Luitenant-admiraal-generaal
1679
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1691
コルネリス・トロンプ Arolsen Klebeband 02 415 1 無し(提督系) Luitenant-admiraal-generaal
デ・ロイテル提督の死後3年後に任命。この3年間の空白は、トロンプ提督自身の性格に起因するトラブルが原因らしい。
1691
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1692
ヴァルデック伯ゲオルク=フリードリヒ Georg Friedrich, count of Waldeck, painted by Johann Valentin Tischbein, ca 1750 ナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレムの娘婿 聖ヨハネ騎士団ブランデンブルク・バレイ長。ヨハン=マウリッツの次代にあたる。
1693
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1704
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=プレーン公ヨハン=アドルフ Johann Adolf, duke of Holstein-Plön, painted by Johann Valentin Tischbein, ca 1750 ナッサウ=ジーゲン伯ヤン七世の義理の甥(二番めの妻の異母弟の長男) 北部二州の反対のため、権限が限定的か。
1702
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1703
アスローン伯ホーダルト・ファン・レーデ(ゴダール・ド・ジンケル) Pict0040EarlofAthlone1st ナッサウ=ザイルステイン伯女姉妹の義父 一時的に2名並立か。ウィレム三世の親衛隊長出身。
1704
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1708
ナッサウ=アウウェルケルク伯ヘンドリク Hendrik van Nassau-Ouwerkerk

ナッサウ=アウウェルケルク伯

オランイェ公マウリッツの庶系の孫

オランイェ公ウィレム三世死後の元帥。兄2人もオランダ軍将校。
1708
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1732
ティリー公クロード=フレデリク・セルクラエス Claude Frederic T'Serclaes, duke of Tilly, painted by Johann Valentin Tischbein, ca 1750 無し? オランイェ公ウィレム三世死後の元帥。おそらく初のナッサウ一族以外且つ初のカトリックを信奉する元帥。(八十年戦争期の共和国軍将校はカトリック禁止)。
三十年戦争期のティリー伯とは縁戚ではあるが直系ではない。

なお、現在のオランダ王国の軍隊には陸軍元帥にあたるタイトルはありません。20世紀初頭に王令によって廃止されたとのことです。

リファレンス

  • “DNB”
  • “ADB”
  • “NDB”
  • クリステル・ヨルゲンセン他『戦闘技術の歴史<3>近世編』、創元社、2010年
  • ジェフリ・パーカー 『長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃 1500-1800年』、同文館出版、1995年
  • 『戦略戦術兵器事典<3>ヨーロッパ近代編』、 学習研究社、1995年