- テュレンヌ子爵 Vicomte de Turenne, フランス大元帥 Maréchal Général
- 生年: 1611/9/11 セダン(仏)
- 没年/埋葬地: 1675/7/27 ザスバッハ(独)/サン=ドニ大聖堂(仏)
生涯
フランス元帥ブイヨン公アンリ・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュとエリーザベト・ファン・ナッサウの次男。ウィレム沈黙公の外孫にあたります。父と名前が同じなので、「テュレンヌ(子爵)」または「テュレンヌ大元帥」とするのが一般的です。歴代フランスに6名しか存在しない「大元帥」のひとり。父のブイヨン公がエリーザベトと再婚したのは39歳のときですが、テュレンヌが生まれたのはさらにその17年後なので、かなり遅くになってからの子供といえます。父の死後、先にオランダで軍事を学んでいた兄フレデリク=モーリスに倣って、1625年オランダに渡りました。14歳のときです。
オランダでは、直接オランイェ公マウリッツ(伯父)とフレデリク=ヘンドリク(叔父)の二人の「おじ達 ooms」に師事しました。最初はマウリッツの護衛隊の隊士としてでしたが、マウリッツはこの年の4月末には亡くなってしまうため、本当の最晩年の数ヶ月間ということになります。ちなみにこの時の護衛隊の隊長は、マウリッツの妹エミリアの次男クリストフ(テュレンヌにとっては従兄)。当時、ハーグにはプファルツ選帝侯フリードリヒ五世(彼もテュレンヌにとっては従兄)も亡命してきていましたが、彼らとどれほどの交流があったかは不明です。兄フレデリク=モーリスとはあまり仲が良くなかったようです。
ここからは2つの説、そのままオランダに留まったとする説と、いったんフランスへ戻ったとする説があります。前者では1626年にフレデリク=ヘンドリクから大尉に任命されたとされ、後者では既に1625年に大隊の指揮権を得たうえで、その秋から1628年春までパリの学校に行ったとされます。いずれにしても1629年、18歳のテュレンヌが叔父のフレデリク=ヘンドリクに従ってスヘルトヘンボスで戦い、軍功を挙げたのは確かなようです。その後兄フレデリク=モーリスはオランダに留まりましたが、母の要請があり、テュレンヌは1630年に帰国してフランス軍に仕官しました。
ここから先はフランスでの話となるので、下記リンクを参照。この後テュレンヌが再びオランダと関わるのは、実に42年後のオランダ戦争の時になります。
- テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ フリー百科事典『ウィキペディア日本語版』 (パブリックドメインの百科事典『ブリタニカ百科事典第11版』をもとにした英語版ウィキペディア記事の日本語訳)
リファレンス
記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。ヘンティは小説。
- ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
- 長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』 講談社選書メチエ、2002年
- 友清理士『イギリス革命史(上)―オランダ戦争とオレンジ公ウイリアム』研究社、2004年
- G.A. Henty Won by the Sword, 1900