ブイヨン公アンリ・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ Henri de la Tour d’Auvergne-Bouillon

Blondel - Henri de La Tour d'Auvergne (1555-1623) - MV 983

Merry Joseph Blondel (1835) In Wikimedia Commons

  • ブイヨン公 Duc de Bouillon, セダン公 Prince de Sedan, テュレンヌ子爵 Vicomte de Turenne, フランス元帥 Maréchal de France
  • 生年: 1555/9/28 クレルモン=フェラン(仏)
  • 没年: 1623/3/25 セダン(仏)

生涯

フランスの軍人・外交官。フランス大元帥テュレンヌの父。この次男と同じ名前なので、父のアンリは「ブイヨン公」と書かれることが多いです。1594年に父親と妻を相次いで亡くし、父からテュレンヌ子爵を、ラ・マルク家出身の妻からブイヨン公およびセダン公の称号と領地を継承します。

ユグノーの指導者として知られていますが、実は改宗したのは「サン・バルテルミーの虐殺」の後の1574年頃です。20歳頃からナヴァール王アンリ(後のフランス国王アンリ四世)と親しく交わるようになり、また、同じくユグノーのルイーズ・ド・コリニーとも幼馴みでした(遠縁でもあり六親等にあたります)。1592年フランス元帥。ナッサウ伯マウリッツの1591年遠征に感嘆の手紙を送り、その縁もあってマウリッツの従兄弟のナッサウ伯たちを軍隊に受け入れ、1593年にルクセンブルク遠征を行いました。1595年にマウリッツの異母妹エリーザベト・ファン・ナッサウと再婚し、以降さらにオランダとの関係が深まりました。1596年には外交官として渡英し、英・仏・蘭三国同盟の締結にも関わっています。

アンリ四世がカトリックに改宗した後も個人的な友情は変わりませんでしたが、彼自身は狂信的ユグノーのままであり、何度も反乱を画策しました。大元帥ビロン公シャルル・ド・ゴントーによる「ビロンの陰謀」に加担し失敗、一時期(1603-1606)ジュネーヴに亡命していたこともあります。ナッサウ伯ヤン六世をはじめとしてドイツのカルヴァン派とのパイプが強く、6人のドイツ諸侯が連名でアンリ四世に嘆願書を送ったこともあり、1606年アンリ四世と和解しました。(首謀者のビロン公が反逆罪で極刑となっているのと比べて相当な恩情です)。国王の死後はその息子のルイ十三世を助け、母后の陰謀から若い国王を守り続けました。

オランダでの宗教論争の時代、マウリッツは最終的にホマルス(厳格)派を選択することになりますが、この時彼の決断に重要な助言を与えた一人がこのブイヨン公と言われています。領地のセダンはフランスのユグノーの一大拠点でもあり、ユグノーの文書館やアカデミーも建設して、ドイツなど近隣諸国のカルヴァン派諸侯の子弟に教育を施しました。甥にあたるプファルツ選帝侯フリードリヒ五世は、若年期にセダンで生活しており、ボヘミアからの追放後も一時期セダンに身を寄せていたことがあります。

リファレンス

  • フランソワ・バイルー( 幸田礼雅 訳)『アンリ四世―自由を求めた王』新評論、2000年