コリニー兄弟(コリニー提督/シャティヨン枢機卿/ダンデロ卿) Seigneur de Châtillon

Coligny Brothers Gaspard Odet Francois

Marc du Val (16th century) In Wikimedia Commons

フランス・ユグノー戦争(1562-1598年)の初期から第三次戦争まで、指導者として活躍した三兄弟。とくに次男のガスパール(コリニー提督)が有名です。が、三人が三人ともその途上に、非業の死を遂げています。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • フランソワ・バイルー( 幸田礼雅 訳)『アンリ四世―自由を求めた王』新評論、2000年
  • 長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』 講談社選書メチエ、2002年

シャティヨン卿ガスパール二世・ド・コリニー Gaspard II de Coligny, Amiral de France

Gaspard-II-de-coligny

School of Clouet (16th century) In Wikimedia Commons

  • シャティヨン卿 Seigneur de Châtillon、フランス提督 Amiral de France
  • 生年: 1519/2/16 シャティヨン(仏)
  • 没年: 1572/8/24 パリ(仏)

生涯

三兄弟の次男。長男オデが聖職に就いていたため、ガスパールがコリニー=シャティヨン卿を継ぎました。末弟フランソワの影響で、1558年にユグノーに改宗しています。オランイェ公ウィレム一世は、ネーデルランドの「反乱」とユグノー戦争の連動を画策し、コリニー提督との話も詰めていました。しかしその計画が具体性を帯びてきた頃、コリニー提督は「サン・バルテルミーの虐殺」で殺害されてしまいます。

長女ルイーズが、オランイェ公ウィレム一世の4番めの妻となり、のちのオランイェ公フレデリク=ヘンドリクを産んでいます。フレデリク=ヘンドリクも、外見は父のウィレムよりはどちらかといえば祖父のほうに似ています。

ほかに息子が2人。

  • 長男フランソワ(1557-1591)…父ガスパールを継ぎ、第六次ユグノー戦争などで活躍しました。のちアンリ四世に仕えるものの若くして戦死します。のちのシャティヨン元帥ガスパール三世の父。シャティヨン元帥についてはこちら
  • 次男シャルル(1564-1632)…叔父フランソワのダンデロ卿を継ぎ、1617年からダンデロ侯。アンリ四世、ルイ十三世に相次いで仕えていますが、1619年にはサン・エスプリ騎士になっているので、宗教はカトリックだったと思われます。

DVD『王妃マルゴ』は「サン・バルテルミーの虐殺」をハイライトとして扱っているので、コリニー提督の出番も多いです。『王妃マルゴ』(コミック)にも三兄弟で登場しています。

シャティヨン枢機卿オデ・ド・コリニー Odet de Coligny, Cardinal de Châtillon

Odet de Coligny

Jean Clouet (16th century) In Wikimedia Commons

  • 枢機卿 Cardinal de Châtillon
  • 生年: 1517/7/10 シャティヨン(仏)
  • 没年/埋葬地: 1571/2/14 カンタベリー(英)

生涯

三兄弟の長男。13歳の頃からカトリックのキャリアを積み、枢機卿にまでなります。が、兄弟たちの影響で、1561年4月にユグノーに改宗しました。ユグノー戦争が始まってからは、国王の母后カトリーヌ・ド・メディシスとの仲介役を担っていたようです。1568年イングランドに渡り、エリザベス一世にユグノーへの支援を依頼しています。1571年、ラ・ロシェル戦に合流するためイングランドを後にする準備をしていたところ、謎の死を遂げました。毒殺と疑われています。

ダンデロ卿フランソワ・ド・コリニー François de Coligny d’Andelot

François-andelot-coligny

Workshop of François Clouet (16th century) In Wikimedia Commons

  • ダンデロ卿 Seigneurie d’Andelot、フランス歩兵大将 Colonel général
  • 生年: 1521 シャティヨン(仏)
  • 没年: 1569/5/27 サント(仏)

生涯

三兄弟の三男、末弟。イタリア、イングランド、対スペイン戦と転戦し、イタリアで虜囚時代の1556年頃にカトリックからユグノーに改宗します。シャティヨン家の中でいちばん先に改宗したことになり、兄弟たちの改宗を強力に後押ししました。ユグノー戦争開始当初から、コンデ公ルイらとともにユグノー軍を率いて戦いました。1569年、コンデ公が戦死した直後、撤退の途上のサントで急死。やはり、食事に入れられた毒による毒殺が疑われています。