国家元首に近い立場の指導者として、オランイェ家もいろいろな事件に巻き込まれています。もちろんウィレム沈黙公の暗殺がいちばんの大事件ですが、ほかにも宝石盗難事件などめずらしいものもあります。時系列でまとめました。
- 事件1・ウィレム一世暗殺未遂事件
- 事件2・ウィレム一世暗殺事件
- 事件3・マウリッツ/オルデンバルネフェルト誘拐未遂事件
- 事件4・フレデリク=ヘンドリク暗殺未遂事件
- 事件5・宝石商強盗殺人事件(3人のヤン)
- 事件6・グロティウス脱獄事件
- 事件7・マウリッツ暗殺未遂事件
ウィレム一世がらみの事件はウェッジウッドの『オラニエ公ウィレム』にも詳しいです。また、ナッサウ家の女性による事件は、「ザクセン系ナッサウ家女子三代のスキャンダル」へ。
事件1・ウィレム一世暗殺未遂事件
1582年
3月18日、アントウェルペンではアンジュー公フランソワの誕生日を祝うため、夜から大規模な祝賀会が予定されていました。オランイェ公ウィレム一世は昼から妻子を伴って宮廷に出かけ、アンジュー公に祝賀を述べて昼食を共にした後、長い渡り廊下を散歩していました。そこへ請願者を装った暗殺者ジャン・ジョルギーが現れ、ウィレムの頭部めがけて正面から銃を発射します。弾は右の耳から頭蓋に入り、口蓋を突き破って左の下顎から飛び出しました。周囲の人々だけではなく、ウィレム本人も死を確信したほどの重傷です。
護衛隊たちは即座に暗殺者を殺害しました。ウィレムの妻シャルロットは気を失って夫の上に倒れ、妹のカタリナはヒステリックに叫び、娘のマリアとアンナは激しく泣いて、辺りは騒然となります。この中で冷静だったのはウィレムの息子のマウリッツとホーエンローエ伯だけであり、マウリッツはジャン・ジョルギーの遺体に触れることを禁じ、みずから遺体の衣服をあらためてその身元のわかる証拠品を探しました。ホーエンローエ伯はすぐに舘を封鎖し、舘を出ようとする者を逮捕せよと命じます。この時点では、襲撃が誰の差し金かはわからず、舘の主であるアンジュー公(かつて「サン=バルテルミーの虐殺」でコリニー提督を暗殺したヴァロア家の一員であるという理由から)が真っ先に疑われたためです。マウリッツはまもなく駆けつけたシント=アルデホンデ卿に証拠品の調査を依頼し、スペイン国王の暗殺指令に呼応したスペイン人が黒幕と判明しました。
ウエッジウッドの『オラニエ公ウィレム』では、マウリッツは突っ立ったまま泣いていたと書かれていますが、これはペイジ(近習)など別な少年の可能性が高いです。他の複数の資料ではこのときの沈着な行動がマウリッツの早熟さの証左として評価されていて、管理人もそのほうが自然に思えます。
ウィレムの傷は深く、いったん持ち直しはしたものの、一時期、ウィレムが家族を集めて最期の別れをいうほどに悪化しました。最終的に5週間ほどで回復に向かいましたが、その身代わりのように、看病に疲れた妻のシャルロットが死んでしまいます。また、実行犯だけではなく、共犯者の何人かも裁判にかけられ処罰されています。
事件2・ウィレム一世暗殺事件
1584年
7月10日。おそらくオランダ史におけるもっとも有名な日のひとつ。暗殺未遂事件から2年後、今度はカトリックの狂信者バルタザール・ジェラールによる、ウィレム自宅での本当の暗殺事件です。詳細は別記事にて。
事件3・マウリッツ/オルデンバルネフェルト誘拐未遂事件
1587年
レスター伯ロバート・ダドリーによる未遂事件。オランダで総督レスター伯の人気が下がっていたこの頃、レスター伯とその一派は、なんとか権威を取り戻そうと数々の陰謀を企てます。
- レスター伯自身がナッサウ伯マウリッツと法律顧問オルデンバルネフェルトを誘拐してイングランドへ連れ去ろうという計画
- ホラント州のデン=ブリルを奇襲するための軍隊徴集の計画
- アムステルダム市役所で市民軍を襲う計画
- かつてのオランイェ公の忠実な協力者で今はレスターの寵臣であるディーデリク・ソノイによる、フリースラント議会乗っ取りの計画
- かつてのオランイェ公の旗持ちで今はレスターの寵臣であるニコラース・デ・マウルデによる、レイデン市参事放逐の計画
これらはことごとく計画段階で失敗し、レスター伯は1587年12月に帰国することになります。余談ですが、このデ・マウルデに対する執行令状が、マウリッツがオルデンバルネフェルトによって初めて書かされた死刑判決への署名だとか。
事件4・フレデリク=ヘンドリク暗殺未遂事件
1594年
レイデン大学で学び始めた初年、わずか10歳のナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク少年への暗殺計画が明るみに出ました。父の沈黙公の暗殺からちょうど10年、暗殺を命じたのは南ネーデルランド執政のオーストリア大公エルンストです。大公は2年にも満たないその任期の間、何人もの要人の暗殺を企んでいました。とくに、フリースラント州総督でフレデリク=ヘンドリクの従兄にあたるナッサウ伯ウィレム=ローデウェイクは、歴代南ネーデルランド執政に何度も命を狙われています。
このときは6人の暗殺者が雇われ、レイデンのプリンセンホフの居室にひとりでいるであろうフレデリク=ヘンドリクを見つけしだい殺すという手筈になっていました。が、彼らはその実行前にブレダで捕らえられ、拷問にかけられたうえですぐに処刑されます。おそらくエルンスト大公の暗殺指令があまりに頻繁すぎるため、計画段階で摘発できるに足る充分な警戒態勢がとられており、フレデリク=ヘンドリクは襲撃を免れたのでしょう。兄のマウリッツ、法律顧問オルデンバルネフェルトだけではなく、一線を退いているシント=アルデホンデ卿もそれぞれ暗殺者のリストを入手していました。
事件5・宝石商強盗殺人事件(3人のヤン)
1616年
3月14日、アムステルダムの宝石商ヤン・ファン・ウェリーが、注文の宝石をマウリッツに届けるためハーグにやってきました。居館のビネンホフを訪ねたところ留守だというので、そのままマウリッツの書斎で待たされることになります。このとき彼を部屋へ通したマウリッツの従者のジャン(ヤン)・ド・パリ、マウリッツの護衛隊のジャン(ヤン)・ド・ラ=ヴィーニュの2人は、共謀して宝石商のヤンを殺し宝石を奪おうと考えました。数億円相当ともいわれるダイヤやルビーに目がくらんだ短絡的な犯行です。
ファン・ウェリーの持ってきた宝石を「あまりに高価すぎて買えない」としてマウリッツがいったん購入を取りやめ、それを聞いていたジャンが「閣下が考え直され、やはり購入するとのことだ」と言ってファン・ウェリーをおびき出した、とする説もあります。
2人はヤンを銃で撃つと、念のため手近にあった紐(なんとマウリッツの机の上にあったガーター勲章のリボン!)で首を絞めて止めを刺し、遺体をタペストリーの裏側に隠しました。彼らは夜間に書斎にこっそり忍び込んで遺体を運び出し、ビネンホフの灰だめに遺棄しました。
アムステルダムでファン・ウェリーの帰りが遅いと騒ぎ出したのと、灰だめから清掃員が遺体を発見したのはほぼ同時といって良いでしょう。2人のジャンが犯人として挙がったのは、別な犯罪(金庫番を泥酔させて鍵を盗みマウリッツの宝物庫から多額の金貨を着服)で捕まったジャン・ド・パリが拷問で自白したためで、2人は車輪にかけられて処刑されました。
ところで、彼らの最期の懺悔を聞いた宮廷牧師のアイテンボハールトは、なぜ警備の厚いビネンホフで誰にも気づかれず遺体を外に運び出すことができたかを訊ねました。ジャン・ド・パリは、マウリッツが夜に娼婦を私室に呼ぶ際、歩哨や召使たちを一時的に遠ざけておける権限が自分に与えられていたので、殺人の日もその特権を悪用したと告白します。何度も繰り返し指摘してきた私生活の乱れ、それに起因した凶悪事件についてアイテンボハールトがマウリッツをひどく諌めたことが、マウリッツとアイテンボハールトの関係悪化の一因となったともいわれています。
アイテンボハールトの長いお小言を仏頂面できいていたマウリッツでしたが、彼が部屋を出て行くや否や怒りを爆発させ、帽子を床に叩きつけて散々に踏みしだき、一切の飲食を拒んだ挙句に誰も話しかけるなと命じました。おかげで次の日、アイテンボハールトは何人もの使用人たちに、「一体きのう閣下に何を言ったのですか」と訊かれる羽目になったとか。
事件6・グロティウス脱獄事件
1621年
1619年、前年にオルデンバルネフェルトらとともに逮捕されたヒューホ・グロティウスには終身禁固刑が下されました。グロティウスは河川に囲まれた要害ルーフェステイン城(上掲の絵画の右上に地図があります)に幽閉されます。とはいっても、近郊のホルクムの街から妻子が毎日のように生活物資を差し入れたり、必要な図書を持ち込むことが可能だったりと、軟禁に近い比較的自由な扱いでした。
グロティウスは大きな長持を図書の運搬に使わせていました。当初こそ中身は厳重に検査されましたが、あまりに頻繁なので、2年も経つとノーチェックで城の内外を出入りするようになります。グロティウスの妻のマリアは、この本箱の中に夫を隠して脱獄させる計画を思いつきます。マリアと忠実な女小間使いエルシェの協力で、グロティウスはまんまとこの要塞からの脱獄に成功しました。1590年の「ブレダの泥炭船」の逆バージョンです。
グロティウス脱獄の報を受けたマウリッツは、「終身刑は意味がないとわかっていた。何せ、奴を裁いた24人の裁判官を束にしたって、奴1人の知恵には敵わないのだし」と無表情に呟いたのみで、探せとも捕まえろとも指示を与えませんでした。また、妻のマリアが脱獄を幇助したことについても、「あの黒い子豚がいつだって俺を欺いているのは知ってたよ」とだけ語り、やはり何も咎めることはありませんでした。
マウリッツはグロティウスの妻のマリアをグロティウスの結婚時からよく知っていて、グロティウスに終身刑が下ったときも、自分宛に恩赦の請願をしにくるよう、わざわざマリア本人に声をかけたほどでした。小柄でふくよかなうえに色黒だったマリアを、マウリッツは「黒豚」と呼んでいたそうです。(セクハラ…)
事件7・マウリッツ暗殺未遂事件
1623年
オルデンバルネフェルトの次男ウィレム(スタウテンブルフ卿)が首謀者として、オランイェ公マウリッツの暗殺を企んだ事件。兄のレイニール(フルーネフェルト卿)やアルミニウス派牧師のスラティウスなど、総勢14人がこの計画に加わります。
1619年、処刑前夜の父のオルデンバルネフェルトの最期の手紙には、「正しく身を修める限り、必ず取り立てて下さると閣下がお約束された」との旨が書かれていました。しかし父の願いも虚しく2人の息子たちは、オルデンバルネフェルト家への世間の風当たりに耐えられずに引きこもってしまい、逆恨みを募らせていきます。4年後の1623年、マウリッツが護衛兵を連れず、わずかな供周りで毎日レイスウェイクの厩舎まで遠駆けすることを知ったスタウテンブルフ卿は、その途上を襲撃すべく、共謀者を募って暗殺計画を練りはじめました。「この手でマウリッツを八つ裂きにしてやる」と息巻く弟の強硬手段にはついていけない、人の良いフルーネフェルト卿は資金を援助するのみにします。
この計画も、事前(とはいっても実行直前の前日)に露呈することになります。
- それぞれ300ギルダーずつで雇われた実行犯のうち3人が、その足でマウリッツのもとに向かい、計画について暴露した(失敗して処罰されるリスクより、情報と恩を売るメリットを選択した)
- オルデンバルネフェルトの娘婿コルネリス・ファン・デル=メイレ(かつてマウリッツの相談役をしており、フレデリク=ヘンドリクとも懇意)が義弟たちの企みについて密告した
- フルーネフェルト卿が幼馴染でもあるフレデリク=ヘンドリクにマウリッツ死後の指導者の地位を打診し、フレデリク=ヘンドリクも満更ではないふうを装っておいて、すぐに兄に報告した
…などの説がありますが、複数あるいはすべての説が並び立っている可能性もあります。いずれにしても、もたらされた情報どおりに、ハーグの宿屋に大量の武器が運びこまれているのが発見されて計画の存在が証明されると、即座に関係者の逮捕の命令が下され、国中および近隣諸国に指名手配が伝えられました。
結局逃げおおせたのは14名のうち、首謀者のスタウテンブルフ卿を含む3名のみ。スタウテンブルフ卿は、オランダが手の出せないブリュッセル執政府に亡命したことで命拾いしました。フルーネフェルト卿を含む他のメンバーは逃亡中のところを見つかりしだい捕らえられ、裁判ののち即座に処刑されています。
なお、フルーネフェルト卿の処刑前、母のマリアと嫁のアンナ・ウェイセン、娘のヤコバ=フランシーナは3人でマウリッツのもとに押しかけ、それぞれ息子・夫・父親の助命嘆願をします。マリアに向かって、「4年前、夫の命乞いはしなかったのに息子の命乞いはするのか」と非難したマウリッツに、マリアは「夫は無罪でした、けれど息子は有罪なのです」と台詞を返したと伝えられています。
リファレンス
記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。
- 柳原正治『グロティウス』、清水書院、2000年
- アムステルダム国立博物館 Moord op Jan van Wely, juwelier te Amsterdam, 1616
- Motley, “Life and Death”
- Motley, “United Netherlands”