- アランソン公およびアンジュー公 Duc d’Alençon et d’Anjou
- 生年: 1555/3/18 パリ(仏)
- 没年/埋葬地: 1584/6/19 シャトー=ティエリ(仏)
生涯
フランス国王アンリ二世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの四男。オランイェ公ウィレムの三番目の妻シャルロット・ド・ブルボンの従弟でもあります。ネーデルランドでは、スペイン国王フェリペ二世のネーデルランドの主権を否定し、彼を除けたあとに、新たな主権者を置く必要がありました。その際に白羽の矢が立ったのが、このアンジュー公です。フランス王弟であるという以上に、イングランドのエリザベス一世の花婿候補であることが、周辺国の援助の必要なネーデルランドにとって重要とされました。1581年7月の『廃位布告』に先立つ1580年9月29日、『プレシ=レ=トゥール条約』でアンジューとの同盟が結ばれます。しかしエリザベスとの結婚話はこの間に棚上げとなり、1582年になってはじめて、アンジューは「ネーデルランドの自由の擁護者」としてネーデルランドへ上陸します。
彼のネーデルランドでの人気は低く、彼を支持し続けたことがウィレム一世の人気を落とす原因にまでなるほどでした。彼自身カトリックで、母后が「サン・バルテルミーの虐殺」を引き起こした張本人だったことも大きな理由ですが、その放埓ぶりにも嫌悪感を起こさせられたようです。(映画『エリザベス』や『Willem van Oranje』でも、金ぴかのお仕着せやハーレムの映像で変人ぶりが強調されています)。与えられた中途半端な権力に業を煮やしたアンジューは、1583年1月、アントウェルペンで「フランス人の狂暴 French Fury」と呼ばれるクーデター騒ぎを起こして失敗、逆に自ら失脚を早める結果となってしまいました。同時に、この騒動を理由にエリザベス一世との結婚話も公式に破談となり、さらに悪いことに、アンジュー自身がマラリヤ熱(結核との説もあり)に罹ってしまいます。最後は母后の勧めでパリに戻り、不仲の兄王アンリ三世とも和解したものの、1584年6月に死去しました。ウィレム沈黙公暗殺のわずか1ヶ月前ということになります。
リファレンス
記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。『王妃マルゴ』(DVD・コミック)にも登場しています。
- フランソワ・バイルー( 幸田礼雅 訳)『アンリ四世―自由を求めた王』新評論、2000年
- 長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』 講談社選書メチエ、2002年
- ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年