ポルトガル公マヌエル Manuel Príncipe herdeiro de Portugal

Emanuelvanportugal

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • ポルトガル公 Príncipe herdeiro de Portugal
  • 生年: 1568 タンジェ(モロッコ)
  • 没年: 1638/6/22 ブリュッセル(白)

生涯

ポルトガル国王アントニオ一世の庶子。1歳年下の弟にクリストヴァンがいます。

1580年、父親アントニオがポルトガル国王に推挙されたため、同時に長男のマヌエルが「Príncipe」(王位継承者の意で「公」と訳すべきなのかもしれませんが、実体は伴わないためこの場合は文字どおり「王子」や「王太子」でも良いかと思われます)の称号を得ます。が、まもなくポルトガル王位を主張するフェリペ二世との戦いになり、マヌエルはイングランドなどの援助も得て父とともに二度戦ったものの、敗れてフランスへの亡命を余儀なくされてしまいます。父の死後の1597年、マヌエルと弟のクリストヴァンはハーグへ亡命しました。ナッサウ伯マウリッツが遠征で留守中のハーグで、マヌエルはマウリッツの妹エミリアと恋仲になりました。が、マウリッツの猛烈な反対に遭ったため、ふたりは駆け落ち同然に結婚します。はじめマヌエルだけがヴェーゼルへ亡命し、のち、エミリアの姉マリア夫婦の計らいでデルフトのホーエンローエ邸に居を構えます。

10年以上の勘当の後、エミリアの兄オランイェ公フィリップス=ウィレムの口利きでマウリッツと和解したマヌエルは、ビネンホフの近くに屋敷を購入しました。時期は折りしもスペインとの休戦期に入っており、マヌエルの姿は日々ナッサウ伯たちとともに見られるようになります。この時期のナッサウ伯ら一団を描いた肖像画には、大体マヌエルも登場しています。

休戦が明け、マウリッツの死期が近づくとマヌエルの周囲にも変化が生じます。マヌエルは終生カトリック教徒でしたが、妻エミリアとは宗教上の諍いで不仲となり、マウリッツの後継者フレデリク=ヘンドリクからは疎まれていました。休戦中から、フィリップス=ウィレムを通じて、ブリュッセルの南ネーデルランド執政府と秘密裏につながっていたことも原因のようです。この時点でマヌエルの2人の息子はカトリック、娘たちはカルヴァン派でしたが、1626年フレデリク=ヘンドリクの命で家族全員の国外退去が告げられると、マヌエルと息子たちはブリュッセルの執政イザベラのもとへ身を寄せました。妻エミリアとは離婚はしませんでしたが、彼女の死後すぐに再婚し、そのままブリュッセルで余生を過ごしました。

リファレンス

ポルトガル公マヌエル=アントニオ Manuel Antonio de Portugal

  • ポルトガル公 Príncipe de Portugal、
  • 生年: 1600/2/24 デルフト(蘭)
  • 没年: 1666/10/27 シュラーゲン(墺)/デルフト(蘭)

生涯

マヌエルの長男。アヴィシュ=ベージャ家の男系としては最後のひとり。

父母の信教の違いに起因し、生涯に何度も信教を変えることになります。母エミリアによって幼少期は改革派として育てられるものの、父マヌエルによって叔父の盾持ちとしてフランスに送られたため、そこではカトリックの教育を受けます。

1619-1623年、伯父のオランイェ公マウリッツによって、オランジュ公領の代官に任命されます。フランス南部にあるオランジュは住民の大半がカトリックで、マヌエル=アントニオも日々のミサはカトリック教会に通っていました。さらに、若いマヌエル=アントニオは職務を副官に丸投げして自分は贅沢な暮らしをおこなったため、マウリッツの信用を失って、当初考えられていた任期よりもだいぶ早くクビになってしまいました。

それでもマウリッツの存命中は年金を受け取れていたものの、その後を継いだオランイェ公フレデリク=ヘンドリクの方針はさらに過酷でした。フレデリク=ヘンドリクはマヌエル夫妻のみならず、子女全員の年金をも停止しました。領地と財産をもたないポルトガル公一家は年金だけが頼りなので、その支払停止は即収入の道を絶たれることを意味しています。マヌエル=アントニオは父に従って南ネーデルランド執政イザベラの宮廷に亡命します。そこでカルメル修道会に入信すると、カトリックの聖職者として1633年まで務めました。

しかしイザベラが死亡した途端、ある日突然修道院から逃亡してオランダに帰国します。(妹のマウリティア=エレオノーラが1629年先に帰国し、オランイェ公の宮廷に仕えていたのでそれを頼ったものと思われます)。そして改革派に改宗し、父の死後はポルトガル公の称号を名乗って、オランダ軍の騎兵将校となりました。

1638年のカロの戦いで、マヌエル=アントニオは次の南ネーデルランド執政枢機卿王子フェルナンドの捕虜となります。ブリュッセルに連行されたマヌエル=アントニオは、以前務めていたカルメル会の修道院に送られ5年間を過ごしました。そして再度枢機卿王子が死亡したタイミングを見計らって脱走し、ハーグに帰国します。改革派への再改宗ののちは、やはり騎兵の将校として最終的には将軍にまでなりました。

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