- 神聖ローマ皇帝 Römisch-deutscher Kaiser ボヘミア王(ハンガリー王、クロアチア王等) König von Böhmen, etc. オーストリア大公 Erzherzog von Österreich ほか
- 生年: 1552/7/18 ウィーン(墺)
- 没年/埋葬地: 1612/1/20 プラハ/聖ヴィート大聖堂(ボヘミア)
生涯
継承の直後こそ父の融和政策を廃して反宗教改革をおこなったものの、次第に政治にも宗教にも関心を失って内に籠るようになり、実権を失っていきました。学問や芸術の守護者としても知られていますが、それも内向きな志向の表れのひとつです。
ネーデルランドの「反乱」に対しては、1579年にスペイン国王と反乱諸州間で行われたケルン和平交渉にローマ教皇グレゴリウス十三世と共に介入していますが、これは失敗に終わっています。
ルドルフはスペイン・ハプスブルクとはほとんど同調せず、フェリペ二世の強硬なネーデルランド政策については反対の立場でした。自分の周りに集めた学者や芸術家なども、むしろプロテスタントの人々のほうが多いくらいで、ユダヤ人も少なからず含まれていました。オランダに関するところでは、植物学者でチューリップ愛好家でもあるクルシウス(のちレイデン大学教授)を一時期保護していました。このような姿勢は、少なくともオランダにとっては、三十年戦争期のようにスペイン・オーストリア両ハプスブルクから挟み撃ちにされる、という危険からは回避されることを意味しています。
蒐集家としても有名です。叔父フェルディナント大公の集めたすべての収集品を購入したほか、自ら絵画・武具・甲冑なども大量に集めました。ドイツ各地に収集のための代理人を置いたり、めぼしいものを領内や個人で所有している諸侯とも書簡によって直接交渉していました。ウィーンに現存するナッサウ伯マウリッツの黒の甲冑一式は、このルドルフ・コレクションに含まれていたものです。実際に着用されていた甲冑などは至極個人的な代物なので、これも直接交渉の賜物と推測されます。
* 各国元首その他オランダ以外を主要な活躍の場としている人物については、サイトの主旨上、オランダと直接関わった事項または八十年戦争(三十年戦争)期間中の行動について記載しています。そのため逆に、その人物の大まかな伝記ではあまり出てこないエピソードがメインになることもあるかもしれません。
リファレンス
聖餐城は小説。
- エヴァンズ(中野春夫 訳)『魔術の帝国 ルドルフ二世とその世界』上、ちくま学芸文庫、2006年
- 伊藤哲夫『神聖ローマ皇帝ルドルフ二世との対話』、井上書院、2016年
- ヒュー トレヴァー=ローパー『ハプスブルク家と芸術家たち』 、朝日新聞社、1995年
- ヒュー トレヴァー=ローパー『絵画の略奪』 、白水社、1985年ハプスブルク家と芸術家たち/絵画の略奪
- 皆川博子『聖餐城』光文社、2007年