マティアス Kaiser Matthias

Lucas van Valckenborch - Emperor Matthias as Archduke, with baton

Lucas van Valckenborch (1583) In Wikimedia Commons

  • 神聖ローマ皇帝 Römisch-deutscher Kaiser ボヘミア王(ハンガリー王、クロアチア王等) König von Böhmen, etc. オーストリア大公 Erzherzog von Österreich ほか
  • 生年: 1557/2/24 ウィーン(墺)
  • 没年/埋葬地: 1619/3/20 ウィーン/カプツィーナー納骨堂 (墺)

生涯

神聖ローマ皇帝としては、在位期間も短くあまり知られていませんが、八十年戦争期の皇帝(即位前ですが)の中では、オランダとの関係が最も直接的にあった人物。

オーストリア大公時代の1578年、反乱諸州の「執政」として招かれたことがあります。この時期、反乱諸州の中にも分裂と反目が生じてきており、対スペインという目的はひとつにしつつも、オランイェ公ウィレムとカトリックを中心とする議会派の間に溝が生まれてきていました。議会派は、執政アウストリア公ドン・ファンを解任して、独自にマティアスを招聘しました。その意図としては、

  1. スペイン国王の異母弟である執政ドン・ファンへの対抗
  2. 比較的信教に寛容なドイツ・ハプスブルクとのパイプ
  3. オランイェ公への牽制

といった複数の政治的理由によるものでしたが、当人が19歳の若さといったこともあり、ほとんど傀儡のようなものでした。それどころか翌1579年、兄ルドルフ二世皇帝の介入によるケルン和平交渉が失敗に終わったことがきっかけで、ルドルフとの関係も急激に悪化していきます。

1581年、フランス王弟アンジュー公に主権を委譲すること、つまりそれに先立ってスペイン国王の主権を剥奪することが決定されると、それに伴ってマティアスも執政を解任されました。執政は「スペイン国王の代理人」なので、スペイン国王を主君としない今、執政の存在意義も消滅するからです。目立った成果のないままマティアスはオーストリアに帰国することになります。

* 各国元首その他オランダ以外を主要な活躍の場としている人物については、サイトの主旨上、オランダと直接関わった事項または八十年戦争(三十年戦争)期間中の行動について記載しています。そのため逆に、その人物の大まかな伝記ではあまり出てこないエピソードがメインになることもあるかもしれません。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
  • ヒュー トレヴァー=ローパー『ハプスブルク家と芸術家たち』 、朝日新聞社、1995年
  • ヒュー トレヴァー=ローパー『絵画の略奪』 、白水社、1985年