- スペイン王女 Infanta、南ネーデルランド執政 Landvoogd van de Zuidelijke Nederlanden
- 生年: 1566/8/12 セゴビア(西)
- 没年: 1633/12/1 ブリュッセル(白)
生涯
スペイン国王フェリペ二世とその3番めの妻・フランス王女エリザベートの長女にあたる王女。妹のカタリナ=ミカエラとともにフェリペの愛情を受けて育ちました。フェリペは摂政をおかず、全ての政務を自ら執り行っていましたが、膨大な書類の整理など政務の手助けを、義理の母アンナや妹カタリナ=ミカエラとともにおこなっていたのがこのイザベラです。とくに義母の死後や妹の結婚後イザベラの重要性はより高まり、対フランス政策など外交上の役割を演じました。フェリペがイザベラのフランス王位継承権を主張したこともあり、アンリ四世はカトリックに改宗を余儀なくされたうえで正式に即位することとなります。死に臨んだフェリペ二世が、南ネーデルランドの統治を、どこか頼りない息子のフェリペ三世ではなく、聡明なイザベラとその婿に指名した甥アルプレヒトに託したのも半ば当然といえるでしょう。
1601年より、夫のアルプレヒトとともに南ネーデルランドの共同統治者を務めます。子供は3人生まれましたが、いずれも夭折。2人のどちらかが亡くなり、その時点で跡継ぎとなる子がなかった場合、統治権はスペイン本国に戻ることとされましたが、夫アルプレヒトと弟フェリペ三世が同年に相次いで亡くなったため、1621年以降は単独で執政を務めることになりました。(本人はスペインに帰国して自らの修道院に入ることを望んでいたようですが、最終的にフランドルの聖クララ修道院に入門しました)。
とくに休戦期間中は、ルーベンス、ブリューゲルら芸術家のパトロンとして知られ、ブリュッセルを外交やバロック芸術の中心地としました。マドリード、ハーグ、ウィーン、プラハ、パリ、ロンドン、ローマ等の外交官が常駐し、多くの条約がブリュッセルで締結されています。またカトリックの改革を行い、商業を奨励し、ハプスブルク家の権威をも取り戻して、南ネーデルランドを「反乱」前の状態にほぼ回復させました。一方、破産寸前のブリュッセルで本国同様の豪奢な宮廷を営んだため、執政府自体の資金難はなかなか改善しませんでした。
政治的に有能で意思の強そうな顔立ちのため、エリザベス女王のようなやり手に見えますが、本人はどちらかというと情の深い人物だったようです。ニーウポールトの戦いの前の閲兵式では、全軍の前で、自分の宝石を売ってでも給与を支払うと約束し、3年にわたるオーステンデの戦いの後の入城式では、オーステンデのあまりの惨状に泣き出してしまったといわれています。
実はオランイェ公フレデリク=ヘンドリクとは何度か会っていて、個人的な関係は悪くはなかったようです。1632年にフレデリク=ヘンドリクのマース川遠征が成功裏に終わると、再度オランダ側との和平を申し出たものの失敗に終わり、その後まもなく死亡しました。死後の統治権は甥のフェリペ四世に譲られることになっていましたが、彼女の生前の希望により、その弟である枢機卿王子フェルナンドが執政に指名されています。
リファレンス
記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。
- ヒュー トレヴァー=ローパー『ハプスブルク家と芸術家たち』 、朝日新聞社、1995年
- ヒュー トレヴァー=ローパー『絵画の略奪』 、白水社、1985年
- 中村俊春『ペーテル・パウル・ルーベンス―絵画と政治の間で』、三元社、2006年
- クリスティン・ローゼ・ベルキン『リュベンス(岩波世界の美術)』、岩波書店、 2003年
- ヤーコプ・ブルクハルト『ルーベンス回想』、筑摩書房、2012年