- オーストリア大公 Archduke、下・内オーストリア総督 Regent von Niederösterreich, in Innerösterreich南ネーデルランド執政 Landvoogd van de Zuidelijke Nederlanden
- 生年: 1553/6/15 ウィーン(墺)
- 没年: 1595/2/20 ブリュッセル(白)
生涯
皇帝マクシミリアン二世の次男で、皇帝ルドルフ二世の次弟。統治者としても軍人としてもイマイチといわれ、前半生もポーランド王になりそこなっていたり、トルコに敗れていたり、あまり良い成果がありません。また、アンリ四世即位後のフランスでユグノー戦争の最中、自らの娘イザベラ=クララにフランス王冠をと望むスペイン国王フェリペ二世によって婿候補のひとりともされましたが、これも失敗に終わっています。
オランダとの関係は1592年、南ネーデルランド執政パルマ公ファルネーゼの死後、フェリペ二世からその後任に任命されたことに始まります。20年近く前に弟のマティアスもこのポストに就いていますが、そのときとはかなり状況が異なっています。北部ネーデルランド(オランダ)では、ナッサウ伯マウリッツの快進撃によって次々とスペインの所有する要地が落とされていっていました。また、現地のスペイン貴族たちは老齢の軍人たちが多く、それぞれがパルマ公の後任を狙っていたこともあって、最初からエルンストの任命を不服としていました。
実際にエルンストがブリュッセルに入城したのは1594年1月末で、そのわずか1年1ヵ月後には急死してしまいます。その1年あまりの間の治世は、まるで無能だったとボロクソに言われることも多いですが、それなりに努力は見せていて、完全に彼一人だけのせいではありません。むしろ慢性的な資金不足、そこからくる給与未払と兵たちの暴動、さらなる軍の劣化、という悪循環に悩まされ続けました。
人をバカにするような悪ふざけをしたり、癇癪持ちで、余計に現地の貴族たちからは嫌われました。また、常に苦虫を噛み潰したような顔をしていて全く笑わない人物でもあり、亡くなった後の遺体からは石やガラスの破片が出てきたそうです。