- アウストリア公、ネーデルランド執政 Landvoogd van de Nederlanden
- 生年: 1547/2/24 レーゲンスブルク(独)
- 没年: 1578/10/1 ブージュ(白)
生涯
カール五世の庶子で、フェリペ二世の異母弟。カール五世死後の1560年に正式に兄のフェリペ二世に認知を受け、アウストリア公ドン・ファンを名乗ることを許されます。しかし、正式な「Infante」(スペイン王族の称号)としては認められず、同時に王族の呼称である「殿下」ではなく「閣下」とされました。(「オーストリア大公 Archduke」でもなく、爵位もないので「公」というより「卿」に近い地位です。ここでは区別のため一般にいわれている「アウストリア公」としました)。ドン・ファン自身も宮廷での生活は好まず、育ての親でもあるキハーダのもとで暮らしつづけたようです。フェリペは弟を聖職者にしようとし、息子ドン・カルロス、従兄弟でもあるパルマ公アレサンドロ・ファルネーゼとともにアルカラ・デ・エナレスの大学に通わせました。が、これが逆効果で、ドン・ファンはファルネーゼ同様に軍人を志すようになってしまいます。(女遊びなどもこの頃ファルネーゼに教わったらしいです)。
彼の軍人としてのキャリアはレパントの海戦で頂点を迎えました。レパントの海戦については下記参照。しかしレパント以降の地中海遠征は芳しくなく、1576年、ネーデルランド執政レケセンスの死去に伴い、その後任に任じられることになります。このときドン・ファンが執政としてフェリペから託されていた使命は、低地地方でのカトリックの復権とスコットランド女王メアリをイングランド王位に就けることでした。
レケセンスの死去で、オランダ駐留スペイン兵の給与は停止し、各地では掠奪が起きていました。その間にオランイェ公ウィレム一世ら反乱側は「ヘントの和平」を成立させ、スペイン軍の追放を決定します。ドン・ファンと反乱側の交渉はうまくいかず、反乱側はドン・ファンに代わる執政としてオーストリア大公マティアスを独自に招聘したり、アムステルダム市が反乱側に寝返ったりと状況は悪化していきました。ドン・ファンは援軍のファルネーゼとともにいったんジャンブルーで議会軍を破ったものの、その後ナミュール戦線でチフスに罹り、あっけなく死去してしまいました。執政の地位はそのままファルネーゼに引き継がれることになります。
リファレンス
- ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
- 1911 Encyclopædia Britannica