フェルナンド枢機卿王子 Cardenal Infante don Fernando de Austria

Peter Paul Rubens (copy after) Portrait of Ferdinand Cardinal Infante of Spain

After Peter Paul Rubens (17th century) In Wikimedia Commons

  • スペイン王子 Infante、トレド大司教 Archidiócesis de Toledo、南ネーデルランド執政 Landvoogd van de Zuidelijke Nederlanden
  • 生年: 1609/5/16または1610/5/24 エスコリアル(西)
  • 没年: 1641/11/9 ブリュッセル(白)

生涯

スペイン国王フェリペ三世の三男。カトリック貴族の次男以下によくある道として聖職者の教育を受け、トレド大司教および枢機卿となりましたが、いずれもどちらかといえば名目上の地位で、実際は聖職ではなく政治に携わっていました。「枢機卿王子」と呼ばれる所以でもあります。オーストリア大公アルプレヒトと似たようなキャリアともいえます。南ネーデルランド執政である伯母のイザベラは、生前からフェルナンドを後継者として指名していました。1633年12月にイザベラが亡くなると、フェルナンドは軍を率いてネーデルランドを目指しました。海路ではなくイタリアから「スペイン道」経由のルートを採ったため、ブリュッセルに入城したのは1635年4月になってからです。

ブリュッセルへの到着が遅れたもうひとつの理由は、1634年9月のネルトリンゲンの戦いに参加したためでもあります。のちの神聖ローマ皇帝フェルディナント三世の要請で、援軍として参戦し、皇帝軍に勝利をもたらしました。フェルディナント三世は名前も同じ、同世代の従兄かつ義理の兄でもあり(姉のマリア=アナが嫁いでいます)、非常に意気投合し仲も良かったようです。ネルトリンゲンの勝利ののち、ドイツに留まるよう再三要請されたのですが、フェルナンドは当初の計画どおりネーデルランドへ向かいました。 

ブリュッセルでは、本来の地位である聖職者の権限は与えられず、軍事司令官としての権限も制限されました。しかしフェルナンドは政治外交の手腕を発揮し、対フランス政策で成功を収め、軍事的にも改革をおこなっていくつかの都市を陥落させます。

しかし1637年、オランイェ公フレデリク=ヘンドリクによるブレダ奪還の頃から、その栄光に陰りが見えはじめます。フェルナンドの前時代のスペインの将軍・スピノラ同様に、フェルナンドは戦場での敵よりも、スペイン本国での嫉視や妨害に苦しめられました。1641年、戦場で病を得て死去。彼の後の南ネーデルランド執政には、ほぼ半世紀ぶりにハプスブルク家以外の人物が座ることになります。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
  • 色摩力夫『黄昏のスペイン帝国―オリバーレスとリシュリュー』、中央公論社、1986年
  • J.H. エリオット(藤田一成 訳)『リシュリューとオリバーレス―17世紀ヨーロッパの抗争』、岩波書店、1988年