- オーストリア大公 Archduke、トレド大司教 Archidiócesis de Toledo、南ネーデルランド執政 Landvoogd van de Zuidelijke Nederlanden
- 生年: 1559/11/15 ヴィーナー=ノイシュタット(墺)
- 没年: 1621/7/13 ブリュッセル(白)
生涯
神聖ローマ皇帝マクシミリアン二世とスペイン王女マリアの五男。スペイン宮廷で、叔父フェリペ二世によって教育されます。1577年ローマで枢機卿となりましたが、1593年にマドリードへ帰還し、フェリペの政治を手伝うようになります。
兄エルンストの死去により、アルプレヒトは南ネーデルランド執政に任じられ、1596年2月にブリュッセルに入城しました。ちょうど1596年は英・仏・蘭三国同盟(締結は10月)が進められていた時期で、翌1597年はナッサウ伯マウリッツの東部遠征もあり、南ネーデルランド情勢は最悪といえる状況でした。軍を出そうにも資金も無く、既にこの時点からアルプレヒトは再征服を諦め、和平という妥協策を採ろうと決意したようです。その成果が1598年2月のヴェルヴァン条約であり、まずはカトリック国フランスとの不可侵条約を結んで、2年前の三国同盟を瓦解させることに成功しました。この直後、晩年のフェリペ二世は、王女イザベラとアルプレヒトを結婚させて南ネーデルランドの共同統治者とすることを表明します。教皇の許可を得て正式に還俗したアルプレヒトはイザベラと結婚しましたが、この夫婦に子供ができなかった場合、南ネーデルランドはスペインに返還されるとされました。この後、イングランドとは1604年7月にロンドン条約、共和国とも1609年に十二年休戦条約を締結するに至り、その政治的手腕の高さをみせました。
アルプレヒトは出自が聖職者であるため、軍事司令官としては素人と思われていました。それゆえに共和国の連邦議会は1600年以降にフランドル遠征を企てたわけですが、この遠征に強硬に反対したウィレム=ローデウェイクやマウリッツの主張のひとつが、「決してアルプレヒト大公を過小評価するな」というものでした。1600年のニーウポールトはオランダ側の勝利とされますが、実際はアルプレヒト率いる軍隊を単に一時的に追い払ったに過ぎず、その後の遠征自体は完全な失敗に終わっています。また、銀行家の出身で同じく軍事的には素人と揶揄されたスピノラ将軍を、フランドル軍総司令官に起用したのもアルプレヒトであり、人事にも長けていたことがわかります。
休戦期はイザベラと共に、画家のルーベンスをはじめとする文化芸術活動を支援し、南ネーデルランドの文化の興隆に寄与しました。また、同じ時期に南ネーデルランドの再カトリック化にも成功しており、法を整備したり、イエズス会・カプチン会などの修道会を保護しています。しかしこの再改革は、魔女狩りなどの迫害も奨励されていた、という暗い一面も持ち合わせていました。
十二年休戦条約の終了が近づくと、アルプレヒトは休戦期間の更新または恒久的な休戦を望みました。しかし共和国・スペイン本国双方の意向が再戦だったため、不毛な議論に消耗し体調を悪化させたとされ、休戦失効の3ヶ月後に死亡しました。
リファレンス
- ヒュー トレヴァー=ローパー『ハプスブルク家と芸術家たち』 、朝日新聞社、1995年
- ヒュー トレヴァー=ローパー『絵画の略奪』 、白水社、1985年
- 中村俊春『ペーテル・パウル・ルーベンス―絵画と政治の間で』、三元社、2006年
- クリスティン・ローゼ・ベルキン『リュベンス(岩波世界の美術)』、岩波書店、 2003年
- ヤーコプ・ブルクハルト『ルーベンス回想』、筑摩書房、2012年家と芸術家たち/絵画の略奪