南ネーデルランド分割構想

Cardinal Richelieu Signature

リシュリュー枢機卿の署名 In Wikimedia Commons

このサイト内でも何度か取り上げている、オランイェ公フレデリク=ヘンドリクとリシュリュー枢機卿の「南ネーデルランド分割構想」。八十年戦争ではユトレヒト同盟の頃から顕在化し、現在のベルギー北部の分離独立運動とも無関係ではない重要概念でもあるので、ここでかんたんにまとめておきます。

ユトレヒト同盟

Utrecht-Atrecht French

アラス同盟・ユトレヒト同盟と言語境界線 In Wikimedia Commons

おそらく教科書にも載っている「ユトレヒト同盟」。1579年、パルマ公ファルネーゼの主導により、南部諸州が「アラス同盟」を締結してスペイン国王に帰順、それに対抗して北部諸州が締結したのがユトレヒト同盟です。これは「反乱」の方向性を決め、北部がオランダ(ネーデルランド連邦共和国)となる素地をつくったとされています。

これをもうちょっと正確に見ていくと、「南部諸州」「北部諸州」というのは、必ずしも州単位ではなかったことがわかります。

まずは、これら同盟を結ぶまでもなくスペイン国王に恭順の意を示していたのがルクセンブルク、リンブルク、ナミュール各州です。(ほか、リエージュは司教領でもあるため、独自の路線です)。

France Flanders language-en

ロマンス語圏フランドル In Wikimedia Commons

アラス同盟の諸州は、アラス、アルトワ、カンブレー、そしてフランドルの一部(ロマンス語圏フランドル)です。

ユトレヒト同盟は一般には「北部七州」といわれますが、1579年の結成後しばらくは、状況の変化によって絶えず流動化しています。「北部七州」といっても良いかたちに完結したのは、成立から15年も後、1594年のフロニンゲン奪還時のことです。逆にブラバント州・フランドル州の大半をも含んで最も拡大したのは1582年頃で、その後はパルマ公の侵攻や工作により短期間に一気に縮小することになります。

影響力が最大だった1582年時でも、ブラバント州の言語境界線以南はユトレヒト同盟に含まれていませんでした。以降のパルマ公の侵攻路も、まずは与しやすいフランドル州の言語境界線以南からとなっています。そして1585年のアントウェルペン陥落が、一部を除くブラバント州・フランドル州のほとんどの地域の脱落の契機になったといっても良いでしょう。

ファン・デン=ベルフ伯とヴァルフュゼ伯の分割構想

Dyck Hendrik van den Bergh FrederickHenryPrinceOfOrange

After Anthony van Dyck (between 1624 and 1630) In Wikimedia Commons ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリク(左)とオランイェ公フレデリク=ヘンドリク(右)

1630年代の南ネーデルランドでは、南北――南ネーデルランド内での南北――出身の貴族たちがそれぞれ別な不満を抱えていました。北部(フラマン)の貴族たちは、ますます強まるスペイン的な支配構造に嫌気がさし、逆に南部(ワロン)の貴族たちは、北部の貴族たちのほうが優遇されていると考えていました。

彼らはそれぞれ反目し合ってはいましたが、南ネーデルランド執政府およびその背後のスペイン本国に不満を持っているという意味では利害は一致していました。夫オーストリア大公アルプレヒト亡き後の執政イザベラは一貫して和平を志向しており、逆に本国のフェリペ四世とオリバーレス公伯爵は対オランダ強硬路線を採っていました。その定まらない方向性の中で、スペインは相次ぐ戦争に疲弊し、南ネーデルランドも年々衰退の一途をたどっていました。

1632年4月、スペイン=ヘルデルラント州総督のファン・デン=ベルフ伯ヘンドリクは、ヴァルフュゼ伯ルネ・ファン・レネッセ=エルデレンを伴い、従弟でもあるオランイェ公フレデリク=ヘンドリクおよびオランダ連邦議会の法律顧問アドリアーン・パウに秘密裏に接触を図りました。フラマンの貴族たちは執政府に反乱を起こす準備があり、その際には南ネーデルランドの北半分をオランダ共和国に組み込んでほしいというものです。これに呼応して、ワロンの貴族たちも同様の打診をフランスのリシュリュー枢機卿にすることになっているという話でした。これによって、オランダとしても長い対スペイン戦争に終止符を打つことができ、現在の膠着状態を打開できるとの主張です。ただし、自分たちの条件として、特権や財産、とくにカトリック信仰が保証されることを求めました。

翌月、連邦議会もこれに同調することとし、さっそくフレデリク=ヘンドリクによるマース川遠征が計画されます。ファン・デン=ベルフ伯の内応もあり、遠征自体と各占領都市との交渉はうまくいきました。これに慌てた執政イザベラは、和平の使者としてフラマン貴族のアレンベルフ侯フィリップ=シャルル・ド・リーニュを中心とした交渉団10名をハーグへ送ります。が、フレデリク=ヘンドリクの父オランイェ公ウィレム一世主導による1581年の「廃位布告」から既に半世紀、その間北部の実効支配を続けているうえ、現在も軍事的優位に立っているオランダにとって、「南北ネーデルランドはスペイン国王のもとに統一されるべきである」という全く時流に合わないちぐはぐな申し出は、一瞥する価値すらない和平条件でした。しかもアレンベルフ侯はファン・デン=ベルフ伯と通じていて、分割構想の筆頭人物でもあり、表向きのイザベラの条件とは別に裏の交渉の下準備も進めていました。彼らは英国王にまで支援を求めており、チャールズ一世もその内諾をフレデリク=ヘンドリク宛に送ってきています。

Portret van een man, geïdentificeerd als Peter Paul Rubens (1577-1640). Schilder en diplomaat, SK-A-2318

After Anthony van Dyck (1630-1660) 画家兼外交官のルーベンスを描いた肖像 In Wikimedia Commons

アレンベルフ侯らの動きに警戒を持っていた執政イザベラは、自らの私的外交官で画家のルーベンスをその監視役につけるつもりでいました。しかし、アレンベルフ侯に「画家ふぜいが貴族に手紙を送るなど身分を弁えよ」と散々に侮辱された挙句に旅券発行の妨害にも遭い、すっかり嫌気のさしたルーベンスは、イザベラに外交官を辞する旨を強く直訴しています。

イザベラはブリュッセルが包囲されるのではないかとの危機感を強く持ち、巡礼までおこなったほどでした。しかし結局は挙兵を伴う大々的な動きにまでは至らず、この構想は立ち消えになってしまいます。イングランドの外交官が反乱分子のリストを手に入れ、それを多額の金銭と引き換えにイザベラに売りつけ、執政府とスペイン本国との間で対応策がとられたことも一因です。一方オランダの側でもマース川遠征において、フレデリク=ヘンドリクの右腕であるナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミール元帥の戦死、英軍のベテラン将軍ホレス・ヴィアーの退役があり、相手の本拠地に乗り込むには戦力に若干の不安が生じたのかもしれません。

その後の南ネーデルランド貴族たちと大公妃イザベラの死

"Isabella Clara Eugenia" - Anthonis van Dyck 086

Anthony van Dyck (1627) 晩年のイザベラ大公妃 In Wikimedia Commons

いったんはリエージュで武装蜂起を試みたものの、兵に信望のなかったファン・デン=ベルフ伯に軍がついてくることはありませんでした。翌1633年、ファン・デン=ベルフ伯は単独でオランダに亡命すると、軍務および公務から引退し、フレデリク=ヘンドリクの保護のもと領地で隠遁生活を送りました。

危険人物とみなされていたアレンベルフ侯は1633年夏、マドリードに召還され、反逆罪の疑いで逮捕・軟禁されました。執政イザベラは彼を疑っていた(そしてその疑いは事実だった)とはいえ、彼の無実を甥のフェリペ四世に直接書き送っています。しかしアレンベルフ侯が許されるのは6年後のことで、虜囚生活で健康を害してしまったアレンベルフ侯は、保釈されたその年のうちに病死してしまいます。

Page 311 of 'Histoire de Belgique depuis les temps primitifs jusqu'à nos jours. (With coloured illustrations.)' (11303726495)

Unknown (19th century?) ヴァルフュゼ伯の殺害(歴史画) In Wikimedia Commons

ヴァルフュゼ伯は大逆罪に問われたこと、買収に遭ったことから不満分子たちとは袂を分かち、南ネーデルランド執政府に帰服します。しかしその5年後、リエージュで反スペイン派の市長を謀殺したとして、市民たちに虐殺されてしまいました。

さらに、1633年12月には執政イザベラが死去します。和平推進派の要が失われたことによって、あらゆる交渉事はいったん棚上げということになりました。

言語境界線による分割構想

Meulener Schlacht bei Nördlingen

Pieter Meulener (1634) 「ネルトリンゲンの戦い (1634)」 In Wikimedia Commons

1634年、「ネルトリンゲンの戦い」におけるスペイン・神聖ローマ皇帝軍の勝利を受け、今度はフランスのリシュリュー枢機卿の側からオランダに分割構想についての交渉が持ち込まれます。法律顧問アドリアーン・パウはオランイェ公の私的顧問官ヨハン・デ・クヌイトとともにフランスに送られ、1635年2月8日、オランイェ公とリシュリュー枢機卿の名で「パリ条約」が結ばれました。今後フランスが軍事行動をとる場合にはオランダが支援すること、南ネーデルランドの占領地は言語境界線に沿ってオランダ・フランス間で二分割すること、等が定められた攻守同盟といえます。

過去、1624年に仏蘭間に結ばれた「コンピエーニュ条約」は、フランスの経済支援に対するオランダの海上(輸送および軍事)支援が主なものでした。1635年「パリ条約」との大きな違いは、陸上で共通の敵国であるスペインと直接交戦するという点です。

実はこのリシュリュー枢機卿主導による言語境界線による分割構想、先のファン・デン=ベルフ伯の構想と若干違っています。冒頭に挙げた地図上の言語境界線(赤い線)に沿ったものがファン・デン=ベルフ伯の構想、リシュリュー枢機卿のものは、さらにフランドル州全体をフランスの取り分にするというものです。そのため、純粋な意味での「言語境界線による分割」は、どちらかといえばファン・デン=ベルフ伯の構想のほうが近いということになります。

Jean Chalette Marriage de Louis XIII Toulouse

Jean Chalette (circa 1615) ルイ十三世とアンヌ・ドートリッシュ In Wikimedia Commons

ところで、他国の領土を勝手に他所の国同士で山分けできるものでしょうか。オランダ側としては北部七州と同様、「ユトレヒト同盟」で確認した各州(およびその州議会)の自治権を根拠としています。現在各都市ごとにユトレヒト同盟に参加しているブラバント州が、州として丸ごと加わるかたちをとれば問題ないとの主張です。一方フランス側は、カール五世以来のスペイン王家の低地地方の所有権を、スペイン王女であるルイ十三世妃アンヌ・ドートリッシュが保有していると主張できます。1600-10年代、イングランドとフランスはそれぞれ、あわよくば低地地方の主権を手に入れることのできるカードとして、王子王女とスペイン王室との縁組を推進していたことがありました。その婚姻を勝ち取ったフランスが、今ここでその権利を利用しようというわけです。いずれもごり押しできる程度の理屈は持ち得ていたといえます。

Bataille d'Avein

Unknown (17th century) 「レ・ザヴァンの戦い (1635)」 In Wikimedia Commons

フランスは1635年5月19日にスペインに宣戦布告し、翌日にはレ・ザヴァンの戦いでまずは一勝を得ます。その一週間ほど前、フランスの宣戦布告を前提に既にオランダ軍はマーストリヒトから進軍を開始していて、5月29日には仏軍と合流し、5万の大軍となりました。しかし7月のルーヴァン攻囲戦でスペイン・神聖ローマ帝国連合軍に敗れたのち、それぞれが別々に本国で陽動作戦を受け、仏蘭合同でのオペレーションが困難になってしまいます。

また、期待されていた南ネーデルランド貴族たちの造反や転向が起こらなかったことも誤算でした。とはいっても、1600年のニーウポールトの戦い以来、フランドルやブラバントを舞台とした軍事作戦において南ネーデルランドの貴族や都市の同調が得られたことはなく、計算に入れること自体が誤りだったのかもしれません。結局この構想は、条約後半年と経たずに、事実上瓦解することになってしまいました。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • 佐藤弘幸『図説 オランダの歴史』、河出書房新社、2012年
  • 桜田三津夫『物語 オランダの歴史』、中公新書、2017年
  • 森田安一編『スイス・ベネルクス史(世界各国史)』、山川出版社、1998年
  • ウィルソン『オランダ共和国(世界大学選書)』、平凡社、1971年
  • ヨハン・ホイジンガ『レンブラントの世紀―17世紀ネーデルラント文化の概観(歴史学叢書)』、創文社、1968年
  • Lamster,M., Master of Shadows, Anchor, 2009
  • Geyl, P., History of the Dutch-Speaking Peoples 1555-1648, Phoenix, 2001