マウリッツ公とスピノラ侯の愛人たち

GabrielledEstreesandDuchessedeVillars

Unknown (17th century) アンリ四世の愛妾ガブリエル・デストレ In Wikimedia Commons

フランス国王アンリ四世には56人の愛人が居たといわれているように、当時の王侯貴族には、その信教が何であれ、婚外関係があるのは決してめずらしくありません。

スピノラ侯を調べていたら、意外にも(?)例に漏れずいろいろ出てきたのでまとめました。それだけだと何なので、比較対象としてついでにマウリッツも挙げてあります。マウリッツも、当時の貴族としてはちょっと変わった嗜好の部類に入るのではないかと思います。

マウリッツの愛人たち

Workshop of Michiel Jansz. van Mierevelt 004

Workshop of Michiel Jansz. van Mierevelt (1633) 1610年の3/4肖像画のコピー In Wikimedia Commons

ナッサウ伯マウリッツは生涯妻を持ちませんでした。が、

  • 「頼むからせめて娼婦だけはやめといてくれ」 (従兄:ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイク)
  • 「私の侍女たちにこれ以上手を出すのはやめて」 (実妹:エミリア)
  • 「上半身と下半身がまったく別人格」 (歴史家:モトリー)
  • 「共和国内のあらゆる街に現地妻がいる」 (オランダの歴史番組サイト『Gouden Eeuw』)

なんていわれるくらい、アンリ四世も顔負けの女好きです。どちらかというと、恋愛や駆け引きというより完全に欲だけで生きてます。相手の女性たちが格別美人であったとか、こんなロマンスがあったとか、そういったことも伝わっていません。要は手当たり次第です。

しかも身分の高い女性は徹底して避けています。「○○屋の娘」なんて平民ばかりです。彼の非婚主義同様、これは身分が高く身持ちの悪い実母アンナ・フォン・ザクセンへのトラウマが原因とされていますが、それにしてもやっていることは母親以上ですね。貴族のほうが何かと金がかかるから、という理由もあるかもしれません。

Hofvijver vanuit het westen - 's-Gravenhage - 20085766 - RCE

ビネンホフの西角の写真 (1925) In Wikimedia Commons

てっぺんが三角屋根の細長い四角い塔がビネンホフの「マウリッツ塔」です。(いちばん角の4階建ての塔は17世紀時点にはまだありません)。マウリッツが建設させた、外から直接私室に入れるようになっている塔で、ここから娼婦たちを通わせていました。はっきりいって防犯とか危機管理とかまったくなってないと思うのですが…。(危機管理のまったくなっていなかった結果はこちら → 「オランイェ=ナッサウ家事件簿・事件5」)

マウリッツの愛人とその庶子たち

Esaias van de Velde I - Courtly Procession before Abstpoel Castle - 83.122 - Minneapolis Institute of Arts

Esaias van de Velde I (1619) マウリッツとマルハレータ?(左下)とされる絵画 In Wikimedia Commons

マウリッツの愛人として名前が挙がっているのは6名ですが、私生児を産んだのもこの6人です。つまり逆に言えば、私生児を産まなければ(財産分割の文書上に)名前も残らなかった、というわけです。しかも唯一の下級貴族だったマルハレータ以外の女性については、非貴族のため、生没年や出自などの詳細もほとんど語られていません。

  1. マルハレータ・ファン・メヘレン ナッサウ家庶系の血筋でルイーズ・ド・コリニーの元侍女
    • ウィレム (フロール攻囲戦(1627)で戦死)
    • ローデウェイク (軍人のち外交官として活躍)
    • マウリッツ (14歳で病死)
  2. コルネリア・ヤーコプスドホター 粉屋の娘
    • アンナ (ブイヨン公フレデリク=モーリス麾下の騎兵将校と結婚)
  3. ウルスラ・デ・レイク
    • エリーザベト
  4. ヨープフェン・ファン・アルペン のちに居酒屋の女将
    • カーレル (ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツと共にブラジルに渡り戦死)
  5. アンナ・ファン・デ=ケルデル 時計屋の娘
    • カーレル=マウリッツ (フルスト攻囲戦(1645)で戦死)
  6. デリアーナ・デ・バッケル
    • エレオノーレ (侍従長と結婚)

庶子たちについては「マウリッツとフレデリク=ヘンドリクの庶子たち」も参照。マルハレータの子たちは貴族として教育を受けましたが、その他の子たちは普通に平民として放置されていたらしく、マウリッツの死後にわざわざ弟のフレデリク=ヘンドリクの手によって教育しなおされています。女子は良縁に恵まれ長寿を全うしましたが、男子はほとんどが戦死の憂き目に遭っていて、男系として残ったのは次男ナッサウ=ベフェルウェールト伯ローデウェイクの血統のみです。彼の3人の息子たち(マウリッツにとっては孫たち)は、のちにオランイェ公ウィレム三世のもとで、それぞれ将軍・外交官・元帥として活躍しています。

スピノラの愛人たち

Ambrogio Spinola (Michiel Jansz van Mierevelt, 1633)

Michiel Jansz. van Mierevelt (1633) 1610年の3/4肖像画のコピー In Wikimedia Commons

スピノラ侯にはマウリッツと違って、れっきとした妻がいます。正嫡子は3人いますが、すべてフランドルで軍務に就く以前のジェノヴァでの生まれ、最初の妻との間の子供です。スピノラの浮名はほとんどブリュッセルの宮廷でのこととなります。ちなみに2人めの妻とはブリュッセル宮廷で結婚しました。その父親のロレーヌ=オマール公シャルル一世はフランスのカトリック同盟の大物で、アンリ四世即位後に財産を没収されたうえでブリュッセルに亡命していました。

日本では、スピノラ侯というとほとんどソースが『ブレダの開城』一択のため、「スピノラ=高潔の士」のイメージが先行していて、「スピノラ=惚れっぽい」は若干意外に映るかもしれません。ですがもともとが金持ちのイタリアオヤジですから、ゴシップに事欠かないのはむしろ自然といえるでしょう。

スピノラの場合、マウリッツとは逆で身分の高い絶世の美女を好みます。しかも、そのせいでいろいろ問題が持ち上がったりする、いわゆるファム・ファタル系ばかりです。で、けっこうロリータもOKみたいな…。

シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシー

Charlotte Marguerite de Montmorency

Peter Paul Rubens (ca. 1610) シャルロット=マルグリット嬢 In Wikimedia Commons スピノラ侯の依頼で描かれたもの

アンリ四世が最晩年にストーカーまがいの求愛をおこなった少女。詳細は「ユーリヒ=クレーフェ継承戦争 番外編」へ。

シャルロット=マルグリットはアンリ四世から逃れるため、夫のコンデ公とともにフランスを脱出し、ブリュッセルへ一時避難をしていました。アンリ四世、夫のコンデ公をはじめとして、15歳にして男性を惹きつけてやまなかった美貌の持ち主といわれますが、スピノラも彼女を一目見た途端、その虜になってしまいます。ブリュッセルでは、「国王から逃げてきた」というその話題性もさらに色を添えたことでしょう。

スピノラのアプローチもアンリ四世に引けを取りません。夫のコンデ公が目を離すとすぐに手を取ってキスをしようとするので、コンデ公は姉エレオノール(オランイェ公フィリップス=ウィレムの妻)の舘ですら危険だと感じ、シャルロット=マルグリットをブリュッセルで最もお固くて安全な場所、執政イザベラの宮廷に移したほどです。

Ballroom Scene at a Court in Brussels Mauritshuis 244

Frans Francken the Younger (ca. 1610) ブリュッセル宮廷でのバレエ In Wikimedia Commons 執政夫妻の右に座っているのがシャルロット=マルグリット、左に立っているのがコンデ公

スピノラはバレエの好きな彼女のために、バレエの上演される徹夜の宴席を設けました。オランイェ公夫妻、フエンテス伯夫妻、ブッコワ伯夫妻など、一流の貴族とその夫人たちを呼び集めた上で、豪華な馬車でシャルロット=マルグリットを迎えに行きました。また、画家のルーベンスを呼んで、自分のために彼女の肖像を描かせました。

もちろんこれらには莫大な費用がかかっていますが、スピノラはまるで自らが破産寸前なことを気にしてもいないかのようです。シャルロット=マルグリットがスピノラになびいたかどうかは不明ですが(残念ながらおそらく不発)、いかにも恋愛自体を楽しむラテンな気質が見て取れます。

ジュヌヴィエーヴ・ド・ラスカリ=ユルフェ

Anthony van Dyck - Portrait of Geneviève d'Urfé Duchess of Croy NGS NG 1944

after Anthony van Dyck (1627-28) クロイ伯夫人ジュヌヴィエーヴの肖像 In Wikimedia Commons

ジュヌヴィエーヴはダヴレ侯シャルル=アレクサンドル・ド・クロイの妻。ブリュッセルの宮廷でもとくに美人で有名でしたが、常に複数の男性との関係が取り沙汰されていました。

彼女の夫であるダヴレ侯は、金羊毛騎士にしてスペインの「グランデ」、南ネーデルランド執政の侍従と財務大臣を兼任し、神聖ローマ帝国諸侯でもあるという高位高官の人物です。が、ある日そのダヴレ侯が狙撃されて殺害されるという事件が起こりました。狙撃犯が目撃されていなかったため、何人もの人物に疑いがかかりました。いちおう犯人として彼のペイジが逮捕されましたが、妻のジュヌヴィエーヴと愛人のスピノラが共謀して暗殺したのだと噂されました。

ところがその事件は1624年11月、ちょうどブレダ攻囲戦の真っ最中のことです。スピノラはキャンプに詰めていてそれどころではなかったはずなのですが、それでもそんな噂が出るくらいですから、相当大っぴらに愛人関係だったのでしょう。

リファレンス

  • フランソワ・バイルー( 幸田礼雅 訳)『アンリ四世―自由を求めた王』新評論、2000年
  • Motlay, “Life and Death”
  • Kikkert, “Maurits”